教室
教室に帰ると、クラスの雰囲気が、どこかおかしなものになっていた。
なるほどなあ。
その原因は、すぐに理解できるものだった――まだ帰ってきていない七原の席の周りに、藤堂と子分達がイスを持って来て座っている。そして、その藤堂達の周りには、ぽっかり空間が出来ていた。他のクラスメートが藤堂達と距離を取っている形だ。
被告人を待つ法廷はこんな感じなのだろうか。
そんな事を思いながら、俺は自分の席に着座した。
委員長が、ちらちらとこちらを見ているのに気がつく――いや、委員長だけじゃない。他の生徒も俺を見ている気がする。
何なんだろうか?
「実桜、おかえり」
後ろで藤堂の甲高い声がした。
どうやら、七原が帰って来たようだ。
教室内の視線が後ろへと集中する。
俺も、それに便乗して後ろを振り返った。
七原が張り詰めた教室の空気に気圧されたように、立ち止まっている。
「た、ただいま」
そこで藤堂の手下、切り込み隊長である柿本麻衣が口を開いた。
「実桜、どこ行ってたの? 何も言わないで急にいなくなったけど」
「ごめんごめん。一年生の時からの友達に呼び出されてたのよ」
さすが七原だ。一瞬の迷いも無く、何の不自然さもなく嘘をついた。
「いや嘘とか、いらないから」
柿本が、あっさりと見抜く――いや、最初から、七原が嘘を吐くのを知っているかのような間だった。
七原は怪訝な表情で、自分の席に歩いて来る。
そこで、藤堂達の心の声を聞き取ったのだろう。表情筋が、ぴくりと動いた。
「紗耶。この話は、やめとこ」
七原が低い声を出す。
ここにいる誰一人として、そんな口調で話す七原を見た事が無いだろう。
しかし、藤堂に怯んだ様子はない。
藤堂は棒立ちの七原を見上げながら口を開いた。
「まだ何も言ってないのに、あたしの言うことが分かるの?」
柿本と笹井が顔を見合わせて、クスクスと笑う。
三対一の構図。物凄く嫌な感じだ。
守川の時とは違った意味で、ひりひりとした緊張感が伝わってくる。
「紗耶の言う事なんて、大体予想はついてるから」
「そうかな。だったら、たしかめるために話してみようかな――ねえ、実桜。今、特別棟で戸山と会ってたんだよね?」
「え」
思わず小さな声を漏らしてしまう。
ついでに、守川の驚いた声も聞こえて来た。相変わらずバカデカい声だ。
しかし、それ以外のクラスメート達からは、さほど反応がなかった。
どうやら、これは皆が知っている事なのだろう。
「実桜と戸山が二人きりでコソコソ会ってるって噂が広まっててさ」
笹井が、そう言った。
「そんなわけない」
「じゃあ、何で動揺してるのよ」
「それは……」
「噂は本当だったみたいだね」
どうやら、誰かに目撃されてしまったのだろう。
それを知らなかったのは、俺と七原だけ……いや、守川も驚いていたから、俺と七原と守川だけという事のようだ。
守川は教室に居たんだから、『お前は知ってろよ』と思うが、まあ守川なら仕方がない。
これは誰かが悪意を持って広めた話って事で間違いないだろう。
でなければ、こんなに短時間でクラス中に広まっているわけがない。
同じ事を考えたのか、七原も周囲を見渡している。
犯人捜しをしているのだろう。
噂をしていた罪悪感からか、七原と目が合ったクラスメート達は一様に顔を背けていた。
「実桜、それだけ顔に出しておいて嘘だなんて言わないよね? 二人っきりで会ってたんでしょ? そう言えば、実桜って時々急にいなくなったりするよね。今までも、こそこそ会ってたりしてたの?」
「……初めてだから」
「あーあ。もう認めちゃった。面白くないわー」
藤堂は意地の悪い笑みを浮かべて、そう言った。
横では笹井と柿本が、またクスクスと笑っている。
「いちゃいちゃしてたって聞いたけど、どうなの?」
壁ドンやアーンをいちゃいちゃだと捉えるのなら、そうなのかもしれない。
「適当なこと言わないでよ。そんなんじゃないから」
七原の言葉に明らかな苛立ちが混じり始める。
「じゃあ、どんな関係なのよ?」
そうか。
ようやく藤堂達が、どこに話を持って行きたいかが分かってきた。
俺と七原と守川を複雑な関係という事にしたいのだ。
そういうゴシップに仕立て上げたいのだ。
そうする事で、七原が俺と守川のような嫌われ者と同等のような扱いになる。
それが藤堂の狙いである。
「そろそろ白状したら? 二人きりで何を話してたの?」
七原は何も言えないでいた。
それも当然の事だと思う。
こんな特殊な状況を誤魔化すような嘘が、すぐに思いつくはずもない。
下手な嘘を重ねれば、問いただされて、状況を悪化させるだけだろう。
「言えないの? 二人の間に何かあったって認めちゃってるわけだね」
そんな勝手な理屈があるだろうか。
俺も黙ってては駄目だと思い、声を上げる。
「そんなわけないだろ。何を言ってんだよ」
「戸山は黙ってて! あたしは実桜と話してんだから!」
「でも、俺も関わってる話だろ」
「あたしは真実を知りたいの」
藤堂は、『真実』という部分を強調しながら言った。
まるで俺が嘘しか吐かないというような言い方である。
だが、それに抗う術は、俺には無い。
藤堂と俺では発言力が違いすぎるのだ。
あくまでも、ここで主導権を握っているのは藤堂である。
俺が否定すればするほど怪しくなる。
ここは下手に否定を重ねない方が良いのかもしれない。
俺は仕方なく七原の発言を待つ事にして、七原を見た。
しかし、七原は口を開かない。
どうすればいいか、必死に考えているのだろう。
七原は追い詰められると弱い。表情が固まってしまっていた。
「守川とか、戸山とか。実桜ってヤバい奴に絡まれてるよね」
「戸山なんかじゃあ、実桜に釣り合わないと思うんだけど」
「実桜って変わってるわー、色々と」
「やめときなって、本人も聞いてるのに。しかも、こんな近くで」
藤堂達が笑い声を上げる。
「それにしてもさ。守川、憐れすぎない?」
「実桜とじゃ、立場が全然違うのに告白しちゃうなんて」
その勝ち目のない戦をけしかけたのは藤堂達だ。俺や七原から言わせれば、『何を言っているんだ』という話だが、クラスメート達は、その真実を知らない。
「しかも戸山っていう唯一の友達に裏切られてたんでしょ」
「ちょっと待って。だから、違うって言ってるでしょ」
気を持ち直したのか、七原は冷静にそう言った。
「じゃあ何なの? 教えてよ」
「それって、紗耶達に言わないといけない事なの?」
「別に無理に話せと言うつもりは無いよ。クラスの全員が気になってる事だろうけどね」
教室を見渡しながら話す藤堂。
クラスメートを味方につけるつもりのようだ。
「ちょっと、別の件で話があっただけ。コソコソ会ってたわけじゃない。そうだよね、戸山君?」
「ああ。普通に話してただけだよ」
俺も努めて冷静に答えた。
「まあ、そういう事だから。戸山君とは普段は、あまり話さないけど、普通に友達なの。戸山君と話してた事は言えないけど、今、疑われているような事とは、絶対に違うから」
七原は、そう言って言葉を切る。
別に大した事を言ったわけではない。
淀みなく言葉を発し、冷静に否定しただけだ。
しかし、それで十分だった。
一気にクラスの緊張が和らいでいく。
彼らは思っている。
そもそも、戸山望と七原実桜には明らかに格差がある。
冷静になれば、二人の間に怪しむような事は起こりえない。
ここまで簡単にクラスメート全員を納得させられるのは、七原の普段の積み重ねがあっての事だろう。
一方で黙り込んだのは藤堂だ。
これ以上、七原に問う事はできない。
藤堂だって、何の確証も無く、噂だけで七原を追い詰めようとしているのだ。
これ以上食い下がれば、無様な醜態をさらしてしまうかもしれない。
七原への同情が集まり、藤堂の人間性が疑われることになるかもしれない。
表情こそ崩していないが、藤堂の苛立ちは手に取るように伝わって来ていた。
同様に藤堂の子分達も、何をすればいいか分からず戸惑っているようだ。
七原は息をつく。
これで話は終わりだ。
俺も、ふっと短く息をついた。
「藤堂さん!」
守川のデカい声が静寂を破る。
「藤堂さん、いい加減にしてくれよ。二人が違うって言ってるんだから違うんだ!」
そう言いながら、のそのそと歩いて来る守川。
もう話の収集がついたのに、今さら何を言う事があるのだろうかと疑問に思うが、守川は今頃になって話の流れを理解したのだろう。
タイミングが遅すぎる。
まあ、守川にとって、これは寝耳に水の話だったのだから、仕方がないと言えるのだが。
「ナナが関係ないって言ってるだろ。オレはナナを信じるよ。戸山も信じる。二人はオレの大事な友達なんだ。藤堂さんには告白の件でアドバイスをもらったから感謝しているけど、オレの為に喧嘩してくれなくてもいい」
言っちゃったよ――と、俺は思う。
藤堂にしてみれば、守川に告白を指南した事は隠しておきたかったはずだ。
クラスがザワザワし始める。
「ああ、ごめん。これは言っちゃいけないって言われてたんだった」
やはり口止めされていたようだ。
その事まで暴露してしまっている。
藤堂はさぞ怒り狂ってるだろう――そう思って藤堂を見るが、藤堂からは怒りを感じ取れなかった。
「実桜。最後に、もう一つだけ聞かせて」
藤堂は、たっぷりとした間で話す。
「戸山と話してた事って、守川にとって、良い話なのかな? それとも、悪い話なのかな?」
その発言に感心させられる。
こういう言い方をすれば、悪い想像ばかり働いてしまう。
今、クラスメート達の前で、俺と七原を信じると言い切った守川。
その馬鹿だけど純粋な守川を、七原が裏切るという構図を提示したのだ。
藤堂のその一言は、再びクラスメート達の心をザワつかせた。
七原も言葉を詰まらせる。
動揺をあらわにしてしまっていた。
「なんで、すぐ返答できないの?」
「その顔は、都合が悪いって言ってるのと同じだからね」
ここぞとばかりに、藤堂の手下が攻撃する。
「二人でヒソヒソ話してたもんね。実桜って、あんな陰険な顔するんだって思ったよ」
藤堂達は、その現場を見てたかのように話し始めた。
「いや、ナナは、そんなこ――」
「もういいから!」
七原が声を荒げる。
「紗耶にも麻衣にも瑠華にも関係ない話だから! 黙ってて!」
七原は落ち着いて話そうとしているはずだ。
しかし、感情がコントロールできないのだろう。苛立ちが溢れてしまっていた。
……もう無理だろう。
感情をさらけ出してしまうのは、事実を認めた上での敗北宣言と同じだ。
七原の負けだ。
完全に負けたのだ。
七原が何も言えないまま、時間だけが過ぎていく。
そこで試合終了を告げるように、チャイムの音が響いた。
朝と同じ、計ったようなタイミングでのチャイム。
もう挽回することは出来ない。
そんな雰囲気だった。
それでも、藤堂が追い打ちをかけないのは、七原が今まで築き上げてきた信頼が、まだ残っているからである。
これ以上責め立てれば、他のクラスメート達も七原に同情するだろう。
あくまで藤堂は、空気を読んで自分の取るべき行動を選択している。
『七原の優位性は崩れた』
『七原より自分の方が勝っていると証明できる日は近い』
藤堂は、そう感じているのだろう。
七原の席から離れる藤堂の横顔から、満足感が見て取れた。
つくづく藤堂は怖い。
藤堂は、こうやって他人を服従させてきたのだ。
どうやっても藤堂には敵わない。そう思ってしまう一件だった。




