逢野姉
「もしもし。戸山君? 何?」
電話口から甘ったるい声が聞こえてくる。
「遅い時間にすみません」
「全然いいよ。それで、雪嶋さんとは会えた?」
「はい。今、ここにいます。逢野さんが言ったように、面倒な事になってますよ」
「面倒な事?」
「はい。それを話すんで、今からスピーカーフォンにしていいですか?」
「う、うん。いいけど……」
俺は携帯にタッチしてスピーカーに切り替えた。
「雪嶋さん、今、逢野さんに電話してるんです」
「へえ。そうなんだ。逢野さん、こんばんは」
「雪嶋さん、こんばんは」
二人は戸惑いながら挨拶を交わす。
「逢野さん、今の状況を説明すると……何というか……雪嶋さんに足をがっちりホールドされていてですね。動けないんですよ」
「何をどうしたら、そういう事になるのよ?」
「話せば長い話なんです。雪嶋さんに司崎先生が辞めた原因を聞いていたんですけど……あ、ちなみに、逢野さんは司崎先生と雪嶋さんが交際してたって噂は知ってますか?」
「え? 知らないよ。そうだったの?」
「ただの噂で、事実では無いです。だけど、その噂が岩淵先生の耳に伝わって少し問題になったらしいんです。雪嶋さんは、それが司崎先生が教師を辞めた原因じゃないかというんです」
「本当に?」
「いや、話を聞いた限りでは、辞めるほどの事にはならなかったと判断しました――それで、話を切り上げようとしたら、雪嶋さんはそれに納得できなかったようで……そういう経緯で、こんな事になりました」
「なるほど。そんな事があったのね」
逢野姉は同情の滲む声で言った。
「だから、逢野さんの話も聞きたいと思って電話したんですよ。逢野さんも司崎先生が辞めた原因について何か知ってますよね?」
「え?」
逢野姉と雪嶋が同時に声を上げた。
「さっき電話した時に、逢野さんにもその事を聞いたじゃないですか。その時の反応で何か知ってるんじゃないかと思ったんです」
「えーと。それは……」
逢野姉が口を濁す。
「お願いしますよ。今の俺のこの状況を何とかしてくれませんか? このまま拘束されてても困るんですよ」
「うーん……でも、それを聞いた人に『絶対、誰にも言わないで』って言われてるから」
「雪嶋さんは、司崎先生が辞めた原因が自分にあると考え、ずっと罪悪感を抱えていたみたいですよ。何とかしてあげたいと思いませんか?」
「……わかった。負けたよ。小深山君の事もあるし、戸山君が悪い人じゃないと信用して話すから」
「ありがとうございます」
「うん……実はね。この前、同窓会があったんだけど……」
「え? 同窓会なんてあったっけ?」
と雪嶋が問い掛ける。
「あ……いや、小さな同窓会。ゴールデンウィーク、暇だったから」
「私も暇だったよ」
「とにかく! 同窓会があってね。私達の同窓会では、いつも先生が何で教師を辞めたかって事が話題になるの。そして、いつも結局、『そんな事、誰にも分からない』って結論になるんだけど、その日、同級生の一人が言ったの、『私は皆の知らない事を知ってるよ』って」
「私達の同窓会ではいつもって部分に引っ掛かってるけど、その話は置いとく――で、その人は何て言ったの?」
「先生は辞めなきゃならなくなったのは、不倫が原因らしい」
「え。不倫? じゃあ、やっぱり、私との事が?」
「違うよ。雪嶋さんとの事じゃない」
「そうだよね。結局の所、私は先生に相手にされてなかったし」
「そこまで卑屈にならなくて良いと思うけど……」
「で、どこの誰なの? 先生と不倫したのは」
「副担任だよ」
「……ああ、副担任か。確かに綺麗な人だったもんね。あれは太刀打ちできないわ」
担任と副担任で不倫してたのか……。
委員長父の件に続き、また不倫云々の話という事で確定のようだ。
「それは確かにただじゃ済まなさそうですね。それで、その副担任の名前は?」
「早瀬先生だよ。フルネームは早瀬繭香」
「え」
……まさかここで早瀬の名前が出てくるとは思いもしなかった。早瀬の印象は、そういう事から掛け離れている。
七原も相当に驚いたようで、思わず小さく声を漏らして、慌てて口を塞いだ。七原と遠田が同席している事は逢野姉に説明していないので、ここで声を出すと、ややこしくなると思ったのだろう。
「早瀬先生なら知ってますよ。俺のクラスの担任です」
「へえ、そうだったんだ。意外だよね。司崎先生が不倫ってのも意外だけど、その相手が早瀬先生なのも本当に意外だった」
「ですね」
「それを教えてくれた子によると、司崎先生が不倫してたって事は学年主任の岩淵先生や奥さんの耳に入ったらしい……で、職場では別に処分とかは無かったらしいけど、家庭の方はグチャグチャになって、それで心を病んでしまったって話だよ」
「それは確かな情報なんですか?」
「分からない。そんなの確かめられないじゃん。本人に不倫しましたかって聞くの?」
「そうですね。そんな事は出来ませんね」
「まあ、だから、皆で『そういう事があったんだ』って納得したってだけの話だよ」
逢野がそう言うと、雪嶋が俺の腰にコツンと額をつけた。
「そうだったんだ……知らなかった……先生がそんな風に苦しんでいたなんて……」
「まあ、みんな受験だったからね。色々と配慮してたんじゃない?」
「……そっか。でも、知っておきたかったな。で、何か言葉をかけてあげたかった。先生がしてくれたように」
それを反省する前に、俺をホールドしてる事を反省しろよと思うが、そういう雰囲気でもないので、口に出さない事にした。
「で、問題なのは誰がそんな事を言ったかです。そんな話をしたのは誰なんですか?」
「そんな事まで言わせる気なの?」
「物凄く重要な事なんです」
「それは私も興味がある。逢野さん教えて」
「でも……」
雪嶋の腕が太ももに食い込む。
「でないと、怒りに勢い余って、戸山君の大腿骨を砕いちゃうかも」
――やめてくれ。
「……わかった。でも、他の人には絶対に言わないでね」
「わかってます」
「ムツウライチカって子なんだけど……」
「……へえ。イチカだったんだ」
「ちなみに、どういう漢字ですか?」
「陸亀の『陸』に浦島太郎の『浦』。それから漢数字の『一』に中華料理の『華』で陸浦一華だよ」
「その陸浦さんって人は、何で司崎先生が不倫してるなんて事を知っていたんですかね?」
「わからない。っていうか、それを言ったすぐ後に、青い顔になって、『やっぱり今の話は忘れて。誰にも言わないで』って言ってたから、あんまり詳しい話は聞けなかったの」
「なるほど」
「で、最近になって、小深山君に司崎先生の事を聞かれたから、陸浦さんにも話を聞きたいと思ったんだけど、連絡が取れないのよ。怒らせちゃったのか、陸浦さんが携帯を無くしたとか、そういう事なのか分からないけどね――あ、でも、雪嶋さんだったら、陸浦さんに連絡取れるんじゃない? 仲良かったし」
「雪嶋さんに仲良くしてた人がいたんですか?」
「そんなに真っ直ぐな瞳で言わないでよ」
雪嶋が不満げに言う。
俺の下半身に絡みついてる雪嶋が不満げに言う。
「クラスに溶け込めないで悩んでいたって言ってたじゃないですか」
「そう。そうなんだけどさ。一華だけは違った。一華は私に『先生のこと好きなんでしょ? 応援するよ』って言ってくれたし……今じゃ、疎遠になっちゃったけどね」
「何で疎遠に?」
「一華は私に『先生に思いを告げた方がいい』って言ったの。でも私は、そんな気は更々無かった。その意見の対立から、少しずつ気まずくなって距離を置くようになったの」
「そうだったんだ……知らなかったよ。私は雪嶋さんがまだ陸浦さんと仲良くしてるものだと思ってた。先生の不倫の話も、雪嶋さんと陸浦さんの二人の秘密で、雪嶋さんが『先生に謝らないと』と言ってたのは、司崎先生が不倫してるって事を他の人にバラしてしまったからだと、私の中で勝手に解釈してた」
……なるほど。それで逢野姉は雪嶋を俺に紹介したのか。
「そんな事するわけないじゃん。私は先生の不利になるような事は絶対しない」
そんな遣り取りを聞いてると、七原が俺の側へと歩み寄って来て、「陸浦さんが今どこにいるか聞いてみて」と耳打ちした。
俺はそれに頷き、逢野姉と雪嶋に問い掛ける。
「じゃあ、陸浦さんが今どこにいるかわかりますか?」
「会いに行くつもり?」
「そうですね。その必要があるかもしれません――こんな遅い時間に行くのは非常識だと思いますが、そうも言ってられない状況にあるんですよ」
「そうなんだ……でも家にいっても会えないと思うよ」
逢野姉がぼそりと呟いた。
「何で家にいないと?」
「……これは言っていいのかな」
「聞かせて下さい。重要な事なんです。陸浦さんは鍵となる人物です」
「これも同窓会で聞いた話なんだけど、陸浦さんは彼氏が出来て同棲してるらしいよ」
彼氏……同棲……。
七原が俺の目を見る。
それで、七原が何を意図して俺に質問させたのかが、やっと理解できた。
七原は、陸浦が玖墨の家にいた仲間の能力者ではないかと疑っていたのである――そして、今回聞いた事から考えるに、それは恐らく正解なのだろう。
俺は逢野姉へ問い掛ける。
「その同棲している彼氏って、もしかして玖墨さんですか?」
「え? 知らないけど、そうなの?」
逢野姉は、本当に知らないのだろう。素っ頓狂な声を上げた。
「じゃあ、陸浦さんが玖墨さんと仲良かったとか、そういう事は?」
「知らない。聞いた事ないよ」
「そうですか……」
「何なら陸浦さんと、もう一度連絡取ってみようか?」
「それはやめて下さい。陸浦さんが何で司崎先生の不倫を知っていたかについて疑問があります。だから、こっちがその情報を得たって事を不用意に知られたくないんです」
「そうなんだ。よくわからないけど分かったよ。連絡はしない」
「お願いします」
……ここらで逢野姉に聞くべき事は聞いたという感じだ。
七原にも『もう聞く事は無いか』という感じで視線を送ると、首を縦に振った。
「逢野さん、ありがとうございました。聞きたい事があったら、また電話してもいいですか?」
「うん。いいよ。今日はレポートやらないといけないから、遅くても大丈夫だよ」
「そうですか。ありがとうございます。じゃあ、失礼します」
そう言って電話を切った。
「そう言えば、私もレポートやらないといけないんだ」
未だに俺の下半身に絡みつく雪嶋がそう言った。
我に返るなら、ちゃんと最後まで我に返ってくれよ。この状況はどう考えてもおかしいだろ。
「あの……雪嶋さん、そろそろ離して貰っていいですか? 司崎先生が辞めた原因も納得できましたよね?」
「そうだね」
雪嶋が手を離して立ち上がる。
本当にヤバかった。あと一分遅かったらヤバかった。
まあ、何はともあれ、これでやっと一つ面倒事から解放される。
そう思いながら、雪嶋を見ると、雪嶋は視線を返してくるばかりだ。
「帰らないんですか?」
「でも先生の事がやっぱり気になるから」
まだ居座るつもりらしい。
本当に面倒だ。
しかし、逃げようにも、さっきのように誰かが捕まってしまえば目も当てられない。
がっちりホールドする時のスピードは物凄く早かった。
遠田を捕られる訳にもいかないし、七原も重要な戦力だ。
何より今、司崎がうろついている中で、雪嶋を一人にしていいのかというのもある。
……溜息が出るばかりである。
「で、七原。七原は何で陸浦一華が玖墨の仲間だなんて考えたんだ?」
「陸浦さんとは同じ小学校だったの」
「へえ。知ってたのか? 学年が全然違うのに」
「うん。有名人だったからね。戸山君も『陸浦』って名前に聞き覚えない?」
「まったく」
「陸浦栄一って名前を聞いても」
「まったく」
「元市長だよ。収賄で逮捕されて、ニュースにもなった」
「陸浦一華は、その家族なのか?」
「うん。彼女は元市長の孫なの」
「そうだったのか」
「陸浦さんは私立の学校に行ってたんだけどね……色々あって転校してきたみたい……子供って無駄に正義感強いからね」
「なるほどな」
「それで、さっき陸浦さんの名前を聞いて、その当時の陸浦さんの印象を思い出したの――陸浦さんは『消えてしまいたい』なんて事を思ってたんじゃないかなって」
だから陸浦が姿を消す力を持ったと推測したわけか……。
「つまり、さっき玖墨の家にいたのは陸浦って事だな」
「そうなると、話が一つに繋がるでしょ?」
「ああ」
最初から陸浦の目的は、司崎を追い詰める事にあったのだろう。
だからこそ、雪嶋を焚き付けて司崎に近づけようとしたし、それが進まない事に苛立ったのだ。
そして、その他人に認識されない能力を使って、早瀬との不倫を嗅ぎ付け、司崎を追い詰める事に成功した。そして、今では玖墨と組んで司崎を顎で使っている――そういう事なのだろう。
「あくまでも推測でしか無いけどね」
だが、七原の推測には説得力がある。
恐らく、当たらずとも遠からずって所だろう。
やはり今の七原はキレッキレなのである。




