放課後
放課後。
ホームルームが終わると、いつもなら俺は誰よりも早く教室を出る。
この高校に通い始めて一年と一ヶ月経つが、ずっとそうだった。
しかし、今日は自分の席に着いたまま残っている。
周囲ではクラスメート達が、放課後のちょっとした開放感に浸りながら、楽しげに雑談を繰り広げていた。
車座になってスマホゲームに興じている連中もいる。
その中で、俺に話しかけて来る奴は一人もいない。
もし俺が会話に混じろうとしても、彼らは怪訝な顔をした後、二言三言で話を終わらせるだろう。
なぜなら、俺は嫌われ見下されているからだ。
一年の時、ある一人の女子生徒に目をつけられて以来、こんな状態である。
まあ、もともと社交的な性格でも無かったので、今の状況に余り困っているわけでもないのだが。
そんな俺が今日に限って残っていることには、ある理由があった。
昼休みが終わり、午後の一つ目の授業の時の事だ。
数学の教科書を出して、今日の授業のページを開くと、余白の部分に文字と地図が書き込まれていた。
『今日の放課後、一人で文芸部の部室に来て下さい。七原実桜』
一文の下の地図は、文芸部の部室の場所を示すものだった。
クラスメートの七原実桜という女子生徒からの呼び出しである。
女子生徒からの呼び出し。
これだけ聞くと、甘酸っぱい話を想像するかもしれない。
しかし、そんな話ではないだろう。
確信を持って、そう言える。
理由は先に述べたとおり、俺が嫌われ者だからだ。
七原実桜とは一度も話した事がない。
いや、クラスメートのほぼ全員と話した事が無い。
七原が俺に好意を寄せるなんて、有り得ない事である。
では、誰かのイタズラだろうか?
しかし、それも考えにくい話なのだ。
もしイタズラなら、『呼び出し』で象徴されるような場所を指定するだろう。例えば、体育館の裏とか屋上とか、そういうドラマ性のある場所である。地図を書かないと分からないような変わった場所である理屈が分からない。
イタズラでは無いと判断した理由は他にもある。
呼び出しが教科書に書き込まれていた事もそうだ。
こんな事をする人間なら、女子らしい丸っこい字で書かれた手紙くらいの小道具は用意するものだと思う。やけに達筆なその文字を見ると、作務衣を着て難しい顔をした中年男性を連想する。
色々な可能性を考えてみてはいるが、これだという答えは見出せていない。
だから、今日は真っ先に教室を出るのではなく、こうして七原の様子をうかがっているのである。
七原の席は俺の席から右に一列、後ろに二列のところにある。彼女の方に振り返ったわけではないので、物音だけでの判断だが、今のところ七原に変わった動きは無いようだ。
「実桜ー」
その声で思考が中断される。
クラスメートの藤堂紗耶が七原実桜の名前を呼んだようだ。
前の方の席の藤堂が俺の横を通り、七原の席へ向かう。
ツリ目の綺麗な顔立ちに、明るい色の髪がフワリと揺れる。
藤堂が通り過ぎた後には、ほのかに甘い香りが残った。
「実桜、遊びに行こ」
藤堂が七原を誘ったようだ。
七原はどうするのだろう?
「ごめん。さっきも言ったけど、今日は用事があって……」
すでに七原は一度、藤堂の誘いを断っているらしい。
「えー。でも、今日は彩音も呼ぶよ。彩音とじっくり話がしてみたいって言ってたでしょ?」
藤堂が名前を出した『彩音』とは、恐らく一年の時にクラスメートだった遠田彩音のことだろう。
一年の時、藤堂と遠田は俺と同じクラスだった。
「そうなんだ。遠田さんも来るんだ」
声色から、七原が興味を引かれているのが分かる。
「うん。だから、いいじゃん。行こうよ」
「……ごめん。先約だから」
そう言って、七原がすっぱりと断った事に、俺は少し驚きを感じていた。
藤堂は物凄く我が儘で、何が何でも我を通そうとする。彼女の誘いを断れば、ただでは済まない。
藤堂と同じクラスになった人間は、みんな知っている事だ。
一年の時も藤堂はクラスで好き放題に振る舞っていた。
自分が会話の中心にいないと気が済まないし、敵味方をはっきりと分け、敵視する相手は徹底的に叩く。
他の女子生徒が、藤堂の意に添えないとき、土下座でもするかのような勢いで平謝りしているのを何度も見かけたことがある。
彼女には周囲の目を惹きつける華やかさがあるが、その一方で中身は最悪なのだ。
俺がクラスで嫌われた理由は藤堂に目をつけられたからである。
「えー。遊ぼうよ。用事とか関係ないし」
藤堂の声が先程より高圧的なものに変わる。
七原がはっきり断ったのに、藤堂は全く諦めていないようだった。
少し強く言えば、自分の思い通りになると思っているのだろう。
これは結構な揉め事になりそうだな。
七原に少し同情する。
「とにかく今日は駄目なの。ごめんね」
七原が言う。
困り顔が目に浮かぶようだ。
「その用事ってさあ、あたし達より重要な事?」
藤堂は、これ以上ないくらいの面倒なセリフを吐いた。
思わず『うわあ』と声を上げそうになる。
やっぱり俺は藤堂が嫌いだ。
この感覚は間違っていない。そう言い切れた。
七原は藤堂の身勝手きわまりない問い掛けに、何と答えるんだろうか――気になるところだ。
さらに聞き耳に集中する。
「紗耶。駄目だよ、実桜を困らせちゃ」
ふいに新たな人物の声が聞こえてきた。
藤堂の取り巻きが集まって来たようだ。
彼女達は一日中、藤堂の傍らにいて、ご機嫌をうかがっている連中である。
今の発言をした女子生徒のことは仮に子分Aとしておこう。
子分Aもまた一年の時から俺と同じクラスである。
彼女は決して藤堂に逆らわない。藤堂と意見を違えるのを見た事がない。
しかし、今、そんな子分Aが藤堂をたしなめた。
普段のAを知っていれば、考えられない行動である。
「まあ、用事なら仕方ないよね」
その声の主は子分Bだ。
彼女は今年度から遠田彩音に変わり、藤堂の子分Bに就任している。
Bも七原の肩を持ったようだ。
いつもなら、藤堂が少し強く言えば何でも望み通りになる。
子分達との見事な連携プレーで、どんな相手でも瞬時に劣勢に追い込む。
しかし、今日は逆に一対三の構図になっていた。
藤堂は今、どんな顔をしているのだろうか。
それを見てやりたいという衝動を必死に抑える。
分が悪いと判断したのだろう、藤堂は小さく息をついた。
「わかった。用事なら仕方ないね。今度はあたし達を優先してくれるんでしょ?」
藤堂が折れた。
藤堂が諦めた。
さりげなく次は許さないと言っているが、一応は七原の完全勝利である。
俺は藤堂が諦めるのを一度も見た事がない。
彼女には、そんな選択肢は存在しないものだと思っていた。
これは歴史が動いた瞬間だ。
神話の終わりだ。
そんな事を考えていると、七原は素早く話題を切り替えて、他愛の無い雑談を始めた。
七原としても、藤堂に悪い印象を抱かせたままでは駄目だと判断したのだろう。藤堂の誘いを断った事に悪意は無いと示すように、藤堂好みの話題を選択して、すり寄っている。
友達がいる奴って大変そうだな。
端から見て、そう思うのだった。
――さて。
俺は七原の指示の通りに文芸部の部室に向かうことにした。
七原は藤堂の誘いを断ったのだ。おそらく、部室の前で放置されるという事にはならないだろう。
俺を呼び出した目的が分からず、気が進まないが仕方がない。
明日も明後日も学校は続いていく以上、無視して帰るという訳にもいかないのだ。
鞄を持って立ち上がり、まだ残っているクラスメート達の隙間を抜け、教室を出ていく。
その間も、俺は誰とも挨拶を交わすことがない。
いつものことだ。
そこで、ふいに一人の女子生徒と目が合う。
黒髪ショートで愛らしい顔立ち、我がクラスの委員長様である。
彼女は博愛精神に満ちていて、誰とでも仲良くなれるという社交性の持ち主だ。
委員長は、目が合ったクラスメートの全てに、くしゃっとした人懐っこい笑顔を向けて挨拶する――ただし、ただ一人の例外である俺を除いて。
委員長は明らかに俺と合っていた目を、さっと逸らした。
このクラスの中では、割とまともな性格の彼女ではあるが、藤堂の悪影響を受けてしまっているようだ。
藤堂の影響力ってすごいんだな、と再確認する。
そうやって委員長に気を取られていると、後ろからポンと肩を叩かれた。
振り返ると、クラスメートの一人である守川一也がいる。
「戸山! 一緒に帰ろう!」
守川は至近距離でデカい声を出した。その音圧に頭が、ぐわんぐわんとする。
ああ、そうだそうだ。そうだった。
俺こと戸山望は、この人物の存在を記憶から消していた事を思い出した。
クラスメートの中で唯一の例外――守川だけは俺に声を掛けて来るのだ。
俺に声を掛けるのは守川だけ、守川に声を掛けるのは俺くらいのものである――いや、それにも一つ例外があった。守川にも、博愛主義の委員長だけは挨拶をする。
つまり、俺こそが最も下の下、最底辺ということになるだろう。
ちなみに、守川が嫌われている要因は、空気の読めない言動、距離感というものを全く理解しないバカデカい声など色々あるが、一番は俺と親交を持っていることだ。
俺に話し掛けなければ、もう少しクラスに溶け込めるだろう。
しかし、それを説明しても、理解しないのが守川なのである。
俺は守川の誘いに首を横に振った。
俺にだって用事がある時もあるんだよ、と。