EP01:知ってるかもしれない天井
(……ここは?)
男が目を覚ますと、ぼやけた視界に白い天井らしきものが映る。
「知らな……やっぱ止めておこう」
例の、あのあまりにも有名なセリフを呟き掛けた男は、辛うじて踏み止まる。そんなセリフを吐いて、下髭生やしたクソオヤジに『乗らないならカエレ!』などと言われてはたまったものでは無いからだ。
そして、喉がカラカラなのと、そのせいかしゃがれまくった自分の声に驚かされた。
(俺は、京急蒲田駅で電車を降りて……)
意識ははっきりしている。静かに指の先や手足を動かしてみたが、ぼやけた視界以外は肉体的にも問題はなさそうだ。何度か目を擦ってみたが、視界はぼやけたままだ。もっとも、男の裸眼視力は両目で0.04と極端に悪いので、それも仕方あるまい。
辺りを見廻すと、男は簡素だが清潔な部屋に寝かされているようだ。また、手、足、頭や顔を含む上半身など、各所に包帯に巻かれている。
状況から判断するに、ここはどうやら病院らしい。トラック事故の後、運び込まれたのだろう。
(……失敗、か)
男は大きな失望に打ちのめされつつ、瞳を閉じた。
男は予定通り、裏道を暴走する2トントラックから小学生女児を庇って跳ね飛ばされた。
男自身も、計算通りの場所で予測通りのアクシデントに出会う事に半信半疑であった。が、実際にそれは起こり、女の子を救って己を犠牲にする事が出来た。
全身を襲う激しい衝撃と激痛。大騒ぎする小学生やその母親たち、愕然とする運転手を収め、回転する視界。そして、最後のパズルピースがカチっとはまったような満足感。
これは、確実に異世界へ行ける!
あの確信は錯覚だったのか。
(せめてもの救いは、怪我が大したこと無さそうなことか……)
そうだ、一回で成功しなくても仕方ない。ダメならばもう一度だ。
体が動けば、もう一度チャンスは掴める。
男はそう考え、再び瞳を開けた。
「あら」
と、いつの間にかベッドの脇に誰か――白衣を着ているので、看護士と思われる――が立っていて、男が目を覚ましている事に気付いたようだ。
「気が付きましたか?」
その、看護士らしき女性がずい、と男に向かって顔を近づけつつ問いかけて来た。
「あ……は、はい」
戸惑いながらそう答えると、看護士はにっこりと優しく微笑みながら、水の入った素焼きのコップを男に渡して来る。
「喉、乾いているでしょ」
「あ、ありがとうございます」
男はしゃがれ声で礼を言ってからコップを受け取り、ぐいっと一気に水を飲み干した。
「美味しい……」
その水は、これまでの人生で最も美味く、乾いた喉を優しく癒してくれた。
「ふふ、落ち着きましたか?」
穏やかな声で看護士が問い掛ける。
「はい……はいいっ!?」
男は、良い人らしいなと思いつつコップを反そうとした。
だが、看護士の顔を間近に見た男は、思わず大声で叫んでしまった。
「きゃっ!?」
叫び声に驚いた看護士はペタン、としゃがむようにして床に伏せた。
「な、なんですか? どこか痛いんですか?」
しゃがんだままの看護師が、おっかなびっくりといった風情で声を掛けて来る。が、男の視線は看護士の顔に吸いつけられたまま、声も出せなくなっていた。
そのまま、数秒程度の時間が過ぎて。
「成功、だ……」
「え?」
男はふるふると、生まれたての仔鹿の如く小刻みに震えながら呟いた。
「と、とにかく先生を呼んできますので、大人しくしていてくださいね」
看護士はそう言うと、パタパタと急いで病室から出て行く。
それを見送った男は、もう一度呟いた。
「やった……成功だ!」
歓喜に震える男。そう、彼は異世界転移の成功を確信した。なぜならば……
さきほどの看護士は、姿形こそ通常の人類に近かったものの、瞳の色はブルーグリーン、髪はライトグリーンと言うおよそ人間らしくない色合いを持ち。そして何より、その耳は長く尖っていて……男の知る異世界の住人、エルフそのものの容姿をしていたのだった。
(まさかコスプレ病院ってことは無いだろ……常識的に考えて。っと、それより……)
男は、改めてざっと状況把握を試みる。
声も出るし、体も動く。解り切った事だが、現在生まれたての赤ん坊でない事は確かである。幸いにも、言葉も普通に通じている。
(これは……転生ではなく転移、か)
現時点で最も重要なのはそこである。転移か、転生かで状況や行動方針は大きく変わってくる。
可能であれば、前世、というか前世界での記憶を保ったままの胎児転生が理想であったが、ぜいたくは言えまい。
(それと、神、もしくは神らしき存在との邂逅やチート能力付加は今の所無し、と)
これもまた重要な項目である。
こちらも可能であれば異世界に来る前に起こって欲しかったイベントだったが、そうは問屋は下さなかったようだ。
だが、まだ望みが無いわけではない。今後、神との邂逅イベントが発生する可能性は十分にあるし、チート能力に関しては試してみねば解らない。
(何と言っても、異世界転移なんて事態が発生したんだからな。それも、ほぼ計算通りに……)
しかし、この世界への疑問は尽きない。魔法は存在するのだろうか? 文明レベルは?
(くそ、情報が欲しいな……)
少し焦りを感じつつ男は窓へと視線を投げる。と、そこには歪では有るが透明なガラスらしきものが嵌められており、文明レベルはそれなりに高そうに思えた。
(窓ガラスが普通に存在するのか……地球で言えば、産業革命後ちょっと位のレベルだろうか? 知識チートはし辛いかもしれないな。いやしかし、さっき水をもらった時渡されたのはガラス製のグラスとかじゃなくて、素焼きのタンブラーっぽかった。という事は、ガラスの大量成形・生産技術とかはまだ確立されてないのか?)
男が思考の海に精神を鎮めていると、トントン、とドアがノックされた。
「っと、はい、どうぞ」
男は精神を現実に引き戻してノックに応える。するとガチャリ、とドアが開き、先ほどのエルフ看護士を伴って医師らしき人物が入室して来た。
「ふむ、意識が戻ったかね」
「あ……はい」
男は医師を視界に納める。と、先ほどとは違って視界がずいぶんとクリアになっているのに気付いた。
(視力が回復している……?)
前世界で事故るときにはコンタクトレンズを着けていたが、現在はもちろんしていない。だが、先ほどまではぼやけていた視界がハッキリ見えるようになっていて、医師の姿形もしっかり見えている。
(うん、間違いない。ここは異世界だ。だって……)
そう、やって来た医師もやはりエルフとしか思えない容姿をしているのだ。
エルフらしき医師は、ベッドの隣に置かれていた椅子に座ると、男に視線を向けた。
「で、気分はどうだね?」
「あ、はい……普通、です」
「普通、か。それは結構」
医師は、しゃべり方からするとかなり年配のようにも感じるが、声の感じや外見などはどう見ても20代前半にしか見えない。
男はそれとなく医師を観察してみるが、やはりどこから見てもエルフそのものだ。
羽織った白衣は見覚えの有るデザインだが、恐らくは絹らしき高級素材で織られているようで、前世界の化学素材には無い質感を持っている。
白衣の下には、緑色のシャツの様なものと、ズボンは薄青に染めた木綿か何かだろうか。白衣に比すれば簡素な素材のようだ。
しかし、男の目を釘付けたのは艶々とした濃緑色の長い髪と、同じく濃緑の知性溢れる大きな瞳。つん、と尖った鼻と、艶やかな桃色の唇。そして何より、白衣とシャツをはち切れんばかりに持ち上げている胸。
そう、その医師も看護士と同じく、エルフの女性……それも、超極上の美女だったのだ。
「ん? どうしたね? 私の胸に何か付いているか?」
「見事なものをお持ちですね!(い、いえ! 何でも有りません!)」
基本、エルフの胸は慎ましやかなはず。そう思っていた時期が有る男は、テンパり過ぎて本音と建前が逆転していた。
「……ふむ、それはどうも、とでもいうべきか」
「あ……いえその、どういたしまして……」
男はやらかしてしまった事に気付き、カーッと赤面する。だが、エルフの女医は大して気にも留めていないようだ。
「もう! 女性に面と向かってそんな事言っちゃダメですよ!」
しかし、看護士の方はスルーせず、何故かぷんぷんと怒っている。
「すみません、つい……」
男は身を縮ませつつ謝罪する。ついでにそっと確認したところ、看護士の胸はなだらかな大平原を彷彿とさせるものだった。
(なるほど、そういうことか)
男は、看護士の怒りの理由を理解した。圧倒的格差。それに尽きるだろう。
女医のそれがチョモランマ級とすれば、看護士のものは天保山級。早い話がぺったんこであるのだから。
「何かとっても失礼な事を考えてないかな? かな?」
「メッソウモアリマセン」
まるで男の心を読んだかのごとく、額に青筋を立てた看護士が恐い笑顔でずいっと男に迫って来たので、男は冷汗を流しつつそれを否定した。
「ホ・ン・ト・に? 正直に言わないとおねえさん怒っちゃうよ?」
だがしかし、看護士はさらにグイッと顔を寄せ、もうおでことおでこがゴッチンコする寸前にまで迫って来た。
「マッタクココロアタリハゴザイマセン」
男はトラックに跳ねられた時以上に生命の危機を感じつつ、にっこりと微笑んで否定する。ここで正直に答えたら、せっかく実現した異世界転移があっという間に終焉を迎えてしまう。そんな危機感に身を焼かれるほど、エルフぺったんこ看護士の怒りオーラは凄まじかったのだ。
しばし緊張の時間が続いたが、看護士はブルーグリーンの瞳を数回瞬かせたのち、
「……まあ良いでしょう」
と男から顔を離した。
(し、死ぬかと思った……)
男は安堵の溜息を吐きながら、今後は女性の胸をガン見しないようにマジで気を付けようと心に決めた。
「さて、これだけアホなやり取りが出来るなら心配はないだろう」
呆れたように二人のやり取りを見ていた女医が、やれやれと言った風情で声を出す。
「どれ、ちょっと目を診せてくれ」
そして、男に顔を近付けつつそう言った。
「は、はい」
ずい、と近づいてくる女医から甘い蜜の様な香りが漂う。男はドキドキと高鳴る鼓動を感じつつ、女医の細く白い指に瞼をめくり上げられた。
「……ふむ、異常はなさそうだ。念の為、午後イチで検査をして問題なければ、体の方は良しとしようか。チェイニーくん、検査部にその旨伝えてくれないか」
「はい、イシュタル先生」
チェイニーと呼ばれた看護士は医師から指示書らしきものを受け取ると、トコトコと部屋の外へと出て行く。男がそれを見送っていると、イシュタルと呼ばれた医師が声を掛けて来た。
「さて、体は問題なさそうだが……なぜ君がここにいるか理解しているか?」
「え……」
イシュタルの質問に、男は戸惑う。何と答えていいのか判断出来なかったのだ。
(交通事故……は前の世界でのことだし、この世界の俺はなぜ病院にいるんだろうか?)
正直、全く解らない。
と言うより、現在の自分の立場……この世界での立ち位置自体が全く判断つかないのである。
しかし、男は異世界に来る前に散々シュミレーションをしてきたことを思い出す。
そう、どんな状態で転移・もしくは転生したとしても、こうだったらああしよう、ああだったらこうしよう、と行ってきたイメージトレーニング。今こそアレを活かす時だ。
(このケースは……パターンCだな)
パターンC。それは、最も汎用性が高く、応用も無限大の行動パターン。
「どうした、やはりまだ具合が悪いのか?」
男の顔を覗き込むようにして聞いて来るイシュタル医師。男の視界下方で、凶悪なデカメロンがぶるん、と震えた。その圧倒的破壊力を持つ凶器から無理矢理視線を引き剥がした男は、呆然とした表情を造りながら呟いた。
「……ここ、どこですか? 俺は、誰なんでしょうか?」
パターンC。そう、それは王道。早い話が、記憶喪失のフリ、である。
「ふむ……」
イシュタル医師の瞳が凝らされ、呆然とした(フリの)男を見詰める。
男は内心で冷や冷やとしながら、記憶喪失に陥り呆然とする自分を演じるのだった。
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