ルサルカ
月の明るい夜。私は再び帰ってきた。懐かしき故郷に。其処にあるのは壊れ、亡くしてしまった記憶の残照であり、私はその微かな光を受けてその眼に涙を滲ませた。
愛し合った人と言えば違う。だが確かに彼女と掛け替えの無い絆で結ばれていたのだ。ただ、二人の間に産まれたそれは恋ですらなくまだ未熟で青臭い、まるで動く事の無い隣り合わせの人形のような、付かず離れずの関係だった。
喪ってから私は気付く。其れが恋の始まりであったし、同時に終わってしまったと。喪ってから大切なものに気付くとは良く言った者だ。心の蟠りの正体に気付くのが遅すぎたのだ。晴れきった心の先には失った存在の大きさで涙に濡れていた。
何故、あの時危険な場所へ入ろうと思ったのか。何故、あの私は手を離してしまったのか。水底へ吸い込まれるように消えていった君の姿が眼に浮かぶ。あの時君は微笑んでいた。何故、君が微笑んでいたのかは当時の私には解らなかった。
私はこの世界に何も残していない。私の生きた証が、この世界の彼方此方にポツリポツリと、点在するのみである。全てを失った今、やっと決意が付いた。君に会いに行くと。
そう、今回私は君に会いに来たんだ。全てが変わってしまったこの河で未だ帰らぬ君の姿を思う。もう悔いはない。
靴を脱ぎ、河に足を踏み入れる。一歩ずつ、君に近付いていく。
私は決めている。きっと君は待っていたんだと思う。あの微笑みは、私が直ぐ来てくれると信じていたに違いない。遅くなってしまった事を君に詫びよう。私は怖かったのだ。まだ、その時ではないと。
鳥が空を舞う。やがて沈みゆく夕日を眺め私はふと思う。あの大きな太陽も、誰かに会うために沈みゆくのではないのかと。日は沈み、また昇る。私達も、夜明けを迎えられるのだろうか。
冷たい河に身を委ねる。深い水底で眠る君を目指し重石を巻き付けた風船のようにゆっくりと落ちてゆく。不思議と苦しくは無かった。いよいよ、君と再開できる。そして伝えよう。
君への思いを。
不思議だ。何処までも、何処までも沈んでゆく体に私は確信した。私は生の境界を越え、君の世界に辿り着いたと。まるで見えてこない水底の果てから、僅かに光が漏れた。まるで真っ暗な夜空に只一つ輝く星のようなそれは、次の瞬間この世界を包み込むように広がり瞬く間に光の世界を形成する。最早、落ちているのかどうなのかすら分からない。でも、きっと君はこの世界で待っている。この暖かい、不思議な世界で。
私を呼ぶ声がした。
振り向くと其処には、あの時のままの君が微笑んでいた。目から涙が込み上げ、それと同時に君に対する懺悔の念が襲ってきた。
私が、君を死なせたんだ。全て私が悪かった。だからもういい。これで終わりにしよう。幕引きは、君と共に。
君が手を差し出し、僕は手を取る。あの頃のように私達は手を繋ぎ歩き出した。彼女は遠くを指差す。そして君が何かを呟くと、突然強烈な揺らぎと共に君が遠のいてゆく。何故。何故なんだ。君は、私と共に往きたかったのでは無かったのか。
私は君の名を叫ぶ。君の姿が小さくなろうとも私は君に手を伸ばす。大粒の涙が宙に舞い、声にならない叫びが辺りに響き渡り、木霊した。
ごめんね
でも、君には生きてほしいから
私は先にいってるね
会いに来てくれてありがとう
だいすきだよ
眩い世界が形を成してゆく。雪景色のような世界がやがて規則的な直線を描き、私はそこが病室だと理解した。私の意識が戻ったことに看護婦が気付くと慌てて医者を呼び、容態を確認する。医者の話を聞く限り、命に別状は無かったようだ。数日後病院を後にした私は帰りのタクシーに揺られあの河で起こった体験を思い返しながら、ふと思う。
この町では心無い噂が広がっている。「夕暮れに水死した少女が現れ、河へ引き摺りこむ」と。
私は知っていた。それが彼女であると。だから終わらせようとしたのだが、とんだ杞憂だった。
そして、彼女が僕に微笑んだ理由。それはきっと覚悟したのだと。あの時手を離したのは僕じゃなくて、君だ。僕を巻き添えにしないために。そして君は言った。
「生きて」、と。
途中でタクシーを止め、橋の上から河を眺める。私の心は澄みきっていた。君への罪悪感も、あの時の後悔も全て君持っていってくれたから。ここにはもう、彼女はいない。
「僕の心と共に、君は在る」。




