水溜り
サラリーマンになって早七年が立つが、俺は未だに会議が苦手だ。三十を目前に控えながら苦手なものはいつまでも苦手なんだと、その時に知るものである。新入社員の頃は先輩たちがハキハキと皆の前で意見を言い合う姿を見てきて、俺もあのくらいの歳になったら自然にああなるものだと思っていたが、どうやらそれも違うようだ。
明後日に大きい会議があるせいで、俺はもうすでに眠れない程になっていた。何とか回避できないものか。いやいや、違う会議は戦いなんだ。だが、俺は皆の前でうまくしゃべるのがどうも辛い。まず、声が震えてしまう。新入社員の頃はそれがなんとなく許されていたが、最近では上司ばかりではなく同僚の視線まで痛くなってきた。やっぱり、向いてないのか、いやいや違う。頑張って内定採った会社じゃないか。でも、でも……。
あぁ悪い癖だ。こうやっていつも悪いループがどうも思考から抜けない。夜一人になると余計だ。支えてくれる彼女すらできない。なんなら髪まで最近薄くなったように感じる。
明日、起きるのが怖い。会社も枕に落ちる髪を見るのも。
そう思いながらなんとか眠りに着く。もう時計はあえて見ないようにしている。時間を知るのさえ怖いのだ。
次の日、起きるとまず枕を確認する癖がついて目だけはばっちりと覚める。これはいい事なのか、それとも悪い事なのか。それにしてもなぜ朝はこんなに気持ちが晴れないのだろう。ニュースを見ながら、昨日の夜に買っておいた惣菜パンを口に含みスーツに着替える。朝は何も無いはずなのに忙しく感じる。体の重さが一層そうさせるのであった。
通勤も最近では辛くなっていた。昔は無かったが、今ではつわりが酷い女性のようにこの密封された電車でなにか臭いがしたらもう気分は最悪である。ひとつひとつが処理しきれない。そんな感じだ。二駅しか乗らない区間でこれだ。これが一時間だったりしたら俺は会社にすらたどり着けないんじゃないか。そう思うと俺は結構重症なのかも知れない。そう思った。
「内藤君明日の会議、お前の資料と説明重要だからな。難しい所だけど、分かりやすいように作っとけよ」
会社に着くと朝一から上司の戯言が耳に痛い。決して上司は何も俺の悪い所なんて指摘してる訳じゃないし、助言ですらあるのに俺にはもうプレッシャーでしかなかった。午前中はボーっとしてしまい、まったく仕事が捗らない。俺の仕事は午後からスタートできる。昼ご飯を適当に食べた後の少しの睡眠。それが覚めてやっと一日の始まりを感じる。いつからこんな風になってしまったのか。
午後になり、上司の機嫌を伺いながら明日の資料の確認をしてもらう。
「明日の会議の資料確認お願いします」
俺が印刷した十二枚の紙に上司が目を通していく。
「ここさ、周りの形状の公差考えてないでしょ?これだとお互い公差内の部品作ってもズレた時ぶつかるから。直しておいて」
またやってしまった。「直しておいて」これだ。上司は簡単に言うが、今から形状を作り直して、公差の計算をし形状微調整して規格内に入れる。そのあと資料の作り直し。定時には間に合わない。だが、これも自分のせいである。俺は設計職の基本すらまともに出来てない。そもそも資料自体は昨日の深夜の時点で出来ていた。だから朝一で確認しておけば、今日は帰れたかもしれないのに。自分のせいでまたこうなってしまう。そう自分のせいだ。
俺は言われてから全力で自分の設計している形状を直し始める。だが、時はすでに遅いのだ。どれ位時間がかかる作業なのかは検討がつく。早くて二十一時か。そうなると上司はもう帰っている。結局明日の朝、会議の当日に資料確認をしてもらい、そのまま会議の流れなのは確定した。気が重いまま、俺は作業を始めた。
そして資料作成が終わったのは結局二十二時であった。
もちろん上司は仕事を綺麗に終わらせ七時頃に帰宅している。明日の朝一の確認でダメだったらまた会議で俺は恥をかくことになる。そう思うと出来上がった資料にも俺の重いどろどろのため息しか降りかからないのであった。
次の日の朝、まだ水曜日だと言うのに体はいつもより重いようだ。朝の偏頭痛はもうデフォルトである、さらに今日は吐き気まで凄い。だが、休むわけには絶対いかない。大事な会議で休んだら、もう俺の信用はそれこそ失われてしまう。俺は動かない体を必死にたたき上げ会社へと向かった。
俺はなんとか会社にたどり着く事が出来た。だが、心にゆとりを作る間も無く上司に資料を確認してもらわねばならない。一応ちゃんと作り直したはずだ。大丈夫、大丈夫。と自分におまじないをかけながら上司に資料の確認を求めた。
「資料確認お願いします」
俺は、もう病人のような声で何かをアピールしているように見えたのか、朝の不機嫌な上司は黙ってまた俺の会議資料に目を通して言った。
一枚一枚目を通していく上司の視線は紙に向けられているはずなのに、何故か俺の顔を見られてるようで変な汗が出てくる。そして上司が言った。
「うん。資料はいいけど、これだと説明にサンプルが必要なんだけど、それは?」
「え?サンプル……ですか?」
「そう。だってこれだけじゃ説明できないでしょ?サンプル無くて皆に説明出来るならいいけど、この資料じゃ難しいと思うよ」
「はい。じゃあ午後の会議までになんとか作ります」
俺は、たったこれだけの会話で心身から魂が抜けるような疲れがのしかかってきた。サンプルが必要だと気付いたなら昨日言って欲しかったが、そうこう言えないのがエンジニアである。
そして、昼ご飯を食べる時間を削りサンプルを作成。休憩時間は過ぎ会議直前になりやっとサンプルが出来上がった。よし、これでなんとか乗り切ろう。久々に俺は深呼吸をした。なんだか上手く呼吸出来ない違和感があったが、なんとか会議室へと向かう。会議室はビルの四階。ここは十二階だ。毎回この八階エレベーターで降りるのが一番苦痛である。
会議は上司と同行だ。エレベーターでは会話もなく、俺は会議の説明の為、資料に目を通していた。
ここで気付いてしまった。
資料の間違いである。これじゃあサンプルどころではない。あぁ、どうしよう。そう思った瞬間目の前が真っ白に変わっていった。
次に目が覚めた時、俺は病室のベットの上にいた。
状況はすぐに理解できた。俺はあの時気絶したのだ。大事な会議の前になんてことだ。腕を見ると点滴も打たれている。今ここが何病院なのかも、起き上がる気力もなぜか出ない。そして情けないが安心してしまった。とりあえず会議は上司がうまくやってくれただろう。そうこう考えてるうちに看護婦が点滴の交換だろうか俺の所に回ってきた。
「あの、すいません。ここは何病院ですか?」
俺は言った。
「ここはxxx病院ですよ。今ドクター呼んで来ますのでそのままで」
看護婦が微笑んだ。人に微笑まれたのはいつ振りだろうか。
ドクターがやってきて俺の胸に聴診器を当てる。ひんやりと冷たい。その後、俺に問診を始めた。質問は簡単な物だったがドクターは、俺が軽い栄養失調になっていると教えてくれた。そして二、三日は入院であると告げられた。そしてその後に違う医師が来るからと言われ俺はその人を待った。
「こんにちは」
次に来たドクターは笑顔で優しく挨拶をしてくれた。
「こんにちは」
俺も力の無い笑顔で返した。最近では笑顔の作り方もわからないくらい笑ってないのに気付いた。
「仕事中に倒れたそうで?何かありました?あ、私精神科医の渡辺と申します。よろしくお願いします」
俺は自己紹介されて、癖で名刺を出すつい仕草をしてしまう。
「あぁ、そのままで大丈夫ですよ。で、どうですか仕事は?」
渡辺医師が再度仕事について聞いてきた。
「仕事は大変です。ですが、自分の不注意が多くて……」
俺が答えたのはこれだけだったが、カルテに何やらどんどん書きこんで行くのが見えた。
「あなたの今の発言、日本語が少し変なのは理解できました?」
渡辺医師はゆったりとした笑顔で俺に質問を重ねて来た。
「えっと、変でした?あ、失礼しました」
俺は、言ったことを覚えてなんかいなかった。だがこれもつい癖で謝ってしまった。
「いえいえ、もうわかりました。ちょっと失礼」
そういいながら渡辺医師は俺の肩をもみ始めた。俺は訳がわからず、身を任せたがなんだか久しぶりに大きく息を吸うことができた。
「でも、一応形式ですが、このペーパーテスト受けて下さい」
俺はそういわれテスト用紙を渡された。これはうつ病診断のテストなのはすぐに理解した。正直に俺は回答を進めていった。
「はい。ありがとうございます。んーはい。重度のうつ状態になってますね。見なくてもわかってましたが、一ヶ月休職なさってはどうですか?」
医師は俺の解答用紙をみたあと、俺の方を見ながら答えて来た。
「休職ですか?ちょっと会社に聞いてみないと」
「……違いますよ。自分に聞いてみて下さい。私は診断書出しますから。もちろん内藤さんの生活もあると思いますのでそれは内藤さんが望めばですが。どうしましょうか?ちなみに私が診断書を出すと貴方は会社に行かなくてもよくなります。このまま行き続けてもまた倒れますよ。いずれそうなります。どうです?一度組織から抜けて充電してみては」
「行かなくてもよくなる?」
俺は仕組みが理解できていなかったが、医師が嘘をいうと思えない。俺は医師に従い、診断書を書いてもらう事にした。
そして俺はその日のうちに渡辺医師に診断書を貰い、その事を会社に電話した。医師の言うとおり、本当に会社は一ヶ月来ないように告げられた。診断書のコピーだけ送るように言われただけであった。
三日後、俺は退院し自分の部屋に戻った。渡辺医師にまた四日後来るように言われその分の薬を処方された。薬の効果は絶大であった。俺は始めて眠ったような気がするほど朝快適に起きることが出来た。心の底にある仕事をしてない不安があったが、いつもよりは断然すがすがしい四日間はあっという間に過ぎていった。
そして言われた通り、俺はなんとなくスーツを着てしまったが、俺は渡辺医師の所に向かった。
渡辺医師の病院は会社の方とは逆方向へ駅一つ分の所にある。この前の総合病院では週に一度だけ勤務のようで、それは待合室に張ってあった医師の勤務表から推測できた。
「こんにちは。どうですか体調は?」
診察室に入ると渡辺医師が曇りの無い笑顔で問いかけてきた。
「良く眠れるようになりました。これで会社もまたいけそうです」
俺は言った。
「そうですか。それは良かった。でも内藤さん今は一ヶ月の休職中の身ですから会社にはいけません。好きな事して気持ちをリセットしてみて下さい。あと病院に来る際はスーツでなくても大丈夫ですよ」
渡辺医師は恵比寿様のような体系と顔で俺に笑顔で話しかけてくれた。
「そうですか」
俺はそれしか言わなかった。その後は渡辺医師の質問を答えていくだけだった。渡辺医師は俺を言った事をスラスラとカルテに書いていく。なんだか人に話を聞いてもらうのが久しぶりなようで自分でも不思議なくらい次々と社会への不満や、自分の仕事の出来なさを愚痴のようにただしゃべっていく事が出来た。
そして診察が終わり、俺は今度は一週間分の薬を貰った。渡辺医師は、好きな事をしていいですが薬はきちんと飲むのだけは守って下さい。と、それだけは念を押してきた。
家に着き、ここでやっと自分の頭の中で会社のしがらみを切る様に努力をした。俺はスーツを脱ぐと、一気に不思議な気分になった。自分のいない会社はどうなってしまうのか、それにうつ状態であるのはこういうことなのか。色んな思いが頭を巡らしていった。医師に好きなことをしてみるように言われるが、俺は趣味も何もない。しいて言えば寝る事が好きであるが、それは違うような気がする。結局何もする事が思い浮かばず次の診察の一週間まで俺はひたすら寝て過ごすしか出来なかった―。
「そうですか。ではあと二週間身体が無理でなければどこか行ってみてはいかがでしょう?例えば思い入れのある場所などありませんか?今は涼しいし、気持ちの切り替えが出来るかもしれません」
渡辺医師は、寝てしまうだけの俺にアドバイスをくれた。重症だと家から出れないくらいになってしまうらしいがが、俺の場合は会社の問題が無ければ外出だけに関してはそれほど苦ではない。医師の言うとおり、俺は簡単な小旅行の計画を立てた。なんだか休職して旅行にいくなんて気が引けるが、渡辺医師が言うにはそうではないらしい。
薬を二週間分、休職期間が終わるまでの間貰った俺は故郷にいったん帰る事にした。故郷はここから千キロ程あるド田舎である。帰っても何も無いような場所だ。帰って閑散とした場所で余計空しくならないか心配になったが、田舎の空気は違うというしそれが上手く働くのかも知れない。俺は田舎が嫌いで高校卒業後にすぐに、上京して大学時代から一人暮らしを初めその後は、就職を決めた時の一回しか帰らなかった。
故郷には親が農業を営んでおり、仲良く暮らしている。今もきっとそうしているんだろう。俺は小さい頃は家が農家である事がなんとなく嫌だった。小さい頃はサラリーマンがカッコいいと思っていた俺は余計そう感じた。
帰るのが久しぶりなのに、休職となってしまったのが理由だった俺はなんとなく情けないと思い、連絡もせずにそのまま長い旅をした気分のまま実家に着いた。
「あれ、健どうしたんだ。おかえり」
久々に親父に会った。元気そうだ。歳をずいぶんとったように感じたが、それも当たり前だ。長年帰ることは無かったのだから。
「健、お帰り。やっと帰ってきたね」
母も元気そうである。
二人とも俺とは違い、背中から光が出ているように感じた。家には昔俺が高校まで使っていた部屋がそのままであった。懐かしいものばかりでノスタルジーに疎い俺でもなんとなく昔の思い出が少しずつ蘇ってきた。両親は何も言わず、相変わらず「元気か?」とは聞いてきたが、俺の身の上のことには深く聞いてこなかった。俺は実は元気じゃないなんて言えなくて少し長期休暇とったと答えた。
家についてからも相変わらず田舎ではする事がない。それに車が無いと何処にもいけない。俺はそんな所がなんとなく嫌になって都会に憧れ上京した事も思い出していった。家について車が無い俺はやはりただ高校時代に使っていた自分の部屋で寝る事しか出来なかった。家で出る懐かしいご飯も美味しい。都会の弁当などとは違い確かに美味しいが、心の底ではなぜがやはり仕事の事ばかり頭によぎり、あっと言う間に時間が過ぎていった。そして、あと三日で帰るところまで来てしまった。俺は結局何も変わらないまま帰るのか。次の通院ではどう説明すればいいのかなんて考えてしまっていた。そんなことばかり考えていると部屋に親父が入ってきて話しかけて来た。
「そろそろ帰るのか?東京」
「うん。明々後日の朝にまた戻るよ」
俺は言った。
「そうか、明日は雨だけど明後日からは晴れるから丁度いいな」
親父は昔から俺にはあまり干渉してこない親父だった。大学進学のために上京する話をした後からは、俺が都会人になってしまったかのような反応に変わってしまったのだ。母も同様だった。
「明日雨だけど、小学校行ってみなさい。健が通ってた頃から同じ場所だけど建て変わって新しくなってるから」
親父が何年振りに俺に~~してみなさいと言った。俺の心になぜかその言葉は響いた。不思議な感覚だった。俺が高校生になった頃から俺が「東京だ東京」といい始めてから何も俺には言わなくなった物静かな親父の言う優しい命令系はスーッと俺の全身に入って来た。
次の日、親父の言うとおり凄い雨だった。家から出る気がいまいち沸かないが、家で寝てるのも疲れるのを知った俺は、傘を持ちなつかしの小学校へ向かう事にした。
小学校までの通学路は単純だが子供の足で四十分くらいだと記憶している。今の俺なら三十分もかからないなと思いながら家を後にする。長い長い田んぼ道をずーと歩き、大きめの通りに出ると、小学校がある通りに出る。俺が家出た時間は小学校の時に登校していた時刻と一緒だった為、登校中の小学生が沢山いた。学校に近づいていくにつれ沢山のランドセルを背負った子供たちが俺を走って追い越していった。
そして小学校の前まで来た。親父の言ってた通り、小学校は俺が通ってたものと別物になっていた。田舎に新しい建物はこれ一つという感じである。
校門の前にはおおきな水溜りが出来ている。俺は思い出した。この小学校の校門前には大きなくぼみがあり、雨になると大きな水溜りが出来る。
俺は校門を流石に校門をくぐるわけには行かず、水たまりの手前で傘を差しながら学校を見つめていた。
この水溜り、雨の日はどうやって越えたっけと考えていたら小学生がどんどんその水溜りの中を走って行くのが見えた。何人も何人も学校へ向かう小学生たちは誰もその水溜りを避けようとはしてないのだ。真ん中をジャブジャブ走りながら行く生徒までいる。あの短い長靴なんかまるで意味が無い。俺も小学生の時はそうだったのかと思い出すまでに時間はかからなかった―。
家に帰り、俺は親の出す飯を食べた。歩いたせいか今度はかなり美味しく感じられた。
「小学校綺麗だったろ?」
親父が言った。
「うん。でも校門の前のくぼみは工事しないんだね」
俺が返した。
「そんなもの工事する必要あるのか?明日もう一回行って来い」
親父はまた俺に言いつけた。
「なんで?」
俺は疑問だけを聞いた。
「お前が一番元気なのは小学生の時だからだ。大人になるとな気付かないうちに視野が狭くなる。そんなこともまだ知らんのか」
親父はニコニコしながら言った。なんとなく親の偉大さが始めてわかった気がする。俺はなんだか導かれたような気分になり、次の日も小学校へ通学する事にした。
次の日、昨日とは違って晴天そのものだった。田んぼ道もキラキラしている。それに花の香りもアスファルトになった道も、遠くに聞こえる車の排気音も全て脳に直接響いてくるようだった。学校に着きまた俺は校門の前に立った。
昨日と同じように小学生が勢い良く学校に吸い込まれていく。走って校舎に着く前に転んで泣きながら学校に入る生徒も見えた。
そして、俺は気付いた。
俺は昨日より数歩前にいる。昨日目の前にしていた大きいくぼみの真ん中に立っていた。
なんだか凄い体験をしているような感覚になった。親父の言ってる工事の必要は無いって言うの方が正解なのも妙に納得した。
家に帰り、俺は東京に帰る準備を始めた。
「またいらっしゃい」
もうかなりおばちゃんになった母が言った。
「うん。元気でね」
俺が一番元気ではないのに労いの声はスッと出た。親父は仕事に出て家にはいないかったが、それもここでの普通の日常の一つでなんでもない事だった。
この俺の故郷では幼い頃のままの全ての出来事がゆったりと流れていった。
何の計画性も無く立てた帰省だったので親父に会わずに出て行く事になってしまったが、母はお父さんにも言っておくからと俺を見送ってくれた。
帰りのタクシー、電車、新幹線からまた電車と乗り継ぎ俺は今までの出来事の整理を始めていた。こんなにゆっくり物事を考える時間は今までなかったのもその時に知った。
東京に帰って来た次の日、俺はまた渡辺医師の診察を受ける為病院の待合室で待っていた。
「内藤さん、どうぞ」
呼ばれて診察室に行った。
「その後どうですか?どこか行かれました?」
医師は言った。
「故郷に帰ってみました」
俺が言う。
「そうですか。どうでした?」
「良かったです」
俺は簡単な受け答えしか出来なくなってしまってるのもこの時にはわかっていた。
「そうですか。どうします?会社にいけそうですか?」
渡辺医師は聞いてきた。
「いいえ、行けないです。もう少し休んでからでないとまたすぐダメになってしまうと思います」
俺は、少し情けないと思いながらも説教覚悟で答えた。
「わかりました。そうですね。良かったですよ、だいぶ良くなったように見えます。診断書はもう一ヶ月書いておきますから」
渡辺医師は俺の全てを悟ったように笑顔で答えてくれた。
「はい。ゆっくり自分を回復させようと思います」
その後は渡辺医師にまた薬は途切れず飲むように言われただけであった。
俺は、今心が壊れている。それに気付かず頑張っていたらもっと悪くなってしまう。それに気づく事が出来た。だから、今は精一杯自分を取り戻そう。
自分の水溜りをまずは晴れさせる事が大事なんだ。