フランス租界の夜
1937年 8月13日 PM19:22 上海フランス租界 ル・ファンデンホテル
「全く、物騒な事になっちまったな」
「日本と中華のにらみ合いが俺たちに飛び火しなけりゃいいんだが・・・」
中華民国上海のフランス租界にある五階立てのホテル「ル・ファンデン」の食堂ではフランス人のアレンツ・メルトングが同僚のソトモクと席について話をしている。
「昼にすごい爆発音が何回も聞こえたろ?実はあれ、中華国民党軍が橋を爆破したからなんだってさ。そして日本軍が中華と銃撃戦を繰り広げたらしい」
「なんだって!?そんな事があったとは・・・また上海戦争が起きるのか?」
席についたソトモクがアレンツにそう話しかける。ホテルの従業員が蓋が被せられた料理の皿やワインをアレンツたちのテーブルに置いた。
「そうそう、中華人達が租界に入ってきたのはお前が今言ったかつての上海戦争の恐れを想起して危険を感じたかららしい」
「なるほど。租界に行くのにパスポートは要らないし、中華政府だって俺達には干渉したがらないだろう・・・恐らくは」
「黄浦江の上海港に日本の出雲っていう巡洋艦が率いる艦隊も寄港している。もう撃ち合いの音は聞こえなさそうだが・・・いつ奴等がおっぱじめるかもわからないな」
「まあいい。取り合えず食べるぞ」
アレンツ達はナプキンを膝にかけ、ナイフとフォークを手に取る。
1932年に発生した上海事変の後、日本と中華民国との間で停戦こそまかりとおっているが、中国共産党軍の暗躍もある上に日本と中華民国の仲は険悪の一途を辿っている。現に中華民国軍や抗日運動家が日本兵を射殺したり日本企業を荒らし倒している始末だ。華北では戦闘が発生しているが、日本軍の水兵が中国国民党軍に惨殺された事件の後から日本が上海にも兵を増員させ、共同租界には海軍陸戦隊の兵士がひしめいている。
それを理由に中国国民党軍も憲兵や作業員に偽装して兵力を増強させ、上海に強固な陣地を設営している。日本軍と国民党軍との鍔競り合いも終焉を迎え、今日の午前に中国国民党の部隊が唐突に日本軍に向けて機関銃や野砲を発砲したのだ。だが日本軍は列強各国に配慮して戦闘地域が拡大しないよう防衛戦闘に徹していたという。
「美味い。たがいつもより量が足りないな・・・朝飯前の前菜・・・あれ?意味がわからなくなるな」
「超高級料理だと考えればいいだろう。高級料理は量が少ないもんだよ」
アレンツは前菜のサラダを食べながら愚痴をこぼす。やはり租界に避難してきた大量の中国人の為にホテルの備蓄食料の節約を行っているのだろう。
「というより俺はこんな年になって何でホテルで男二人で夕飯食ってんだろうか・・・なんかこう、フランス系でも中華系でもいいからくびれの辺りに腕を回してぎゅっと締め付けたら「ああん」とか言って顔を赤らめてくれるようなかわいい女の子がいればいいのにな」
ソトモクがアレンツを見て溜め息を吐く。アレンツは回りを見回し、食堂の端辺りで席についている中華系の少女を見た。
「あの中華系の女の子とか良いよな」
「お、いいな」
「なあ、中華のかわいこちゃん。俺と一緒に食べようじゃないか」
ソトモクがそういって中華系の少女に投げキッスをする。すると、中華系の少女はしばらくこっちを凝視したあと、そっぽを向いてしまった。
「なにイタリア人か南米ポルトガル人みたいなことしてんだよ・・・これだからお前どころか俺にも女がよってこないんだ。変人め」
「なにいってんだ。変人の仲間も変人だろう。お前だってあの中華系のかわいこちゃんの身体を触りまくって堪能したいんだろ」
「まっ・・・やめてくれ・・・」
ソトモクが中華系の少女を見て手で突きをする動作を繰り返しながらアレンツにそう語りかけ、アレンツは笑いを堪えている。ホテルの食堂で話す言葉ではない。今の彼らを見た人間がフランス人は下品な民族だと思っても誰も文句は言えないだろう。
「ひっひひひひひっ!!」
アレンツとソトモクは堰を切ったように下品な音階で噴き出してしまう。周囲の人間達が国籍性別問わず一斉に彼らの方向を向いた。
「やばい・・・しまった・・・」
「回りの人間と目を合わせるなよ・・・穴があったら入りたいな・・・」
「あの娘の穴とかどうだ?二つあるから二人分いけるぞ」
再びアレンツとソトモクが噴き出す。中華系の少女が赤面しながらも憎悪の眼差しで彼らを睨み付ける。アレンツ達の言葉に不覚にも笑いを漏らしてしまった人間も何人かいたようだ。
中華系の少女はアレンツ達が想像していた快感によってではなく、完全に羞恥によって顔を赤らめていた。現代日本ならばセクハラ発言として警察に連れていかれるだろう。
二十分後、食事も無事に終わり、中華娘に憎悪の目付きで睨まれ続けた上にウエイターには一言も口を聞いては貰えなかった他は特に何事もなかった。
「中華のあの娘、可愛かったな。あの憎悪に染まった表情、そそるぜ。木に捕縛して性感帯かどっかを責めまくりたいな」
「ソトモク・・・まだそんなこといってるのかよ。俺は今思うと物凄く恥ずかしいぞ」
夜の上海には暴風が吹き荒れており、雲が流されていく。ル・ファンデンホテルにも暴風が叩き付けられ、窓という窓がガタガタと震動している。
戦闘で電線が切断されたために光が所々消えている上海の夜景を見ながらそう語るソトモクを廊下の真ん中にある休息スペースのソファーに座りながら煙草をすっているアレンツが咎めようとしている。
「まあ、確かに可愛かったが・・・ん?」
「・・・銃声だ!また戦闘開始か?」
休息スペースの大きな窓からアレンツとソトモクが上海の夜景を見る。照明弾が空に上がって大気のない星を照らす恒星のように周りを照らし出すと、所々で銃や野砲の発砲炎が煌めく。だが、照明弾は風に流され直ぐに落下していった。
風の強いこの夜に日本軍と中国軍との戦闘が再び開始されたのだ。アレンツとソトモクはその光景に思わず見入ってしまう。日本兵が撃つ機関銃の曳光弾が陣地に飛び込み、中国国民党軍の野砲の零距離射撃で洋風の建物が粉砕される。
すると、ホテルの年配従業員がアレンツ達の元に走りよってきた。
「たった今、国際共同租界にて日本海軍と中国軍の戦闘が開始されました!!大丈夫です落ち着いてください!!フランス租界には影響はございませんのでご安心ください!!」
「は、はい・・・」
アレンツの答えを聞く間もなく従業員は廊下を駆けていった。またしても砲撃音と砲弾が風を切って落下する音が響く。爆発音が轟いた。
「本当に大丈夫なのか?」
「上海の向こう側で戦闘が起きているようだ。ちょっとまずいな・・・安心して眠れそうにない」
アレンツは気付いたら燃え尽きて短くなっていた煙草を灰皿に投げた。ソトモクも吸おうとして取り出していた煙草を紙箱に戻し、ソファーから立ち上がった。すると、一組の新婚らしい夫婦が廊下を通りすぎる。
「フランス租界は安全なのかしら・・・中華の人たちもたくさん来ているのでしょう?何だか怖いわ・・・」
「君にとっては安全だ。僕がついているから」
夫の方がそういって妻を抱き締める。その光景を見たソトモクが「何だ、人妻かよ」と漏らした。
「ロビーに行ってみよう。何か近況を得られるかもしれん」
アレンツ達は階段で二階におり、吹き抜けとなっている通路からロビーを俯瞰する。
「おい、憲兵がいるぞ」
ソトモクが入り口を指差す。そこには、サーベルではなくライフルを持った憲兵が四人ほど入り口を塞ぐようにして立ち尽くしていた。
「外出はお控えください。申し訳ございません」
「私の目的地は租界の中よ。戦闘地域じゃないわ。どうしてだめなの」
「誠に申し訳ございません」
鮮やかな寒色のドレスを着たフランス人の女が憲兵に外出を止められてしまう。日本と中国の戦闘は海軍陸戦隊本部がある共同租界を含んだ上海の至るところで勃発しており、フランス租界にも影響が及ぶ可能性もある。だが、それを逆手に取って日本と中華民国を共同租界から叩き出せば、他の列強国家にとっては有利に転ぶことになるだろう。
「やばいな。かなりやばい。ったく、何だってこんなときにこんな場所で戦争なんてするんだ」
「まあ、ここは元々中華人の土地だしな」
「部屋に戻ろう。銃を持った憲兵がいると空気が気まずい」
アレンツがそういうと、ソトモクが部屋に戻ることを提案した。確かに戻った方が安全だろう。アレンツたちは再び階段を登り、自分たちの部屋に向かい始めた。
廊下で二十人程の中国人とすれちがう。共同租界での銃声はまだ収まっていなかった。
部屋のドアを開けて明かりをつけ、窓の紅いカーテンを閉めきった。そして煙草とライターを取り出して火をつける。火に近づけられた煙草が燻るような音を立てて副流煙をあげ始めた。
二人は窓の側の椅子に座りながら煙草を吸い始める。銃声と砲声が轟き、臼砲の独特な落下音が聞こえてきた。だんだん大きくなってくるかぶら矢のように甲高い落下音は人の心に恐怖感を与え、士気を低下させる。アレンツ達も耳を塞ぎたくなってきた。
「今日は眠れそうにないな」
「ああ。領事館は今ごろてんてこまいだろう」
「畜生、俺はワインかなんか買ってくる」
「ああ、すまん。拳銃持ってるよな?」
「持ってる」
鼻から煙を吐き出しながらアレンツは腰の小さなホルスターからコルトM1903拳銃を取り出す。いつか民間向けに販売されていたのをソトモクと共に一丁ずつ購入したものだ。予備の弾倉すらも揃えてある。煙草を一本吸い終わるとアレンツは立ち上がり、ワインを買いに下に降りるため、部屋のドアを開いた。
廊下に出ると、スーツを着用した中国人が六人程一列縦隊になって歩いてきた。皆富豪らしく、礼儀正しい格好をしている。その列の最後尾に、先程アレンツに屈辱的な発言を浴びせられた中華系の少女が歩いているのが目に入った。
まるで当然かのように中華系の少女に睨まれてしまう。アレンツやソトモクにも紳士的な心はある。申し訳なさに肩をすぼめてしまった。
「・・・どうかされましたか?」
「い、いえ、何でも・・・」
エルキュール・ポワロのような髭を生やした初老の男がフランス語で聞いてくる。慌てながら一言言い、アレンツはその場を後にした。
背後から冷眼を受けて脊髄がむずむずする感触を感じながら階段を走って下り、一階に到着する。天井近くに陳列された電灯が廊下を山吹色に照らしていた。すると、廊下の奥でうずくまって何かをしている中国人の男がアレンツの目に入る。
「おい、どうした?」
M1903に触れていつでも抜けるようにしながら声をかけてみる。その男は黒い飴玉のような物が入ったパイプをライターで炙りながら口に付けてゆっくりと息を吸い込んでいた。なんと男は阿片を喫煙していたのだ。
「けっ、憲兵には言わないでくれよ!!俺だって丸め師が居なくて辛いんだ!!」
「いや、俺としては別に構わないが・・・」
男は火の付いたままのパイプを大事そうに持って遁走していく。すると、男の懐から飴のような物体が入った袋が落下して床に落ちる。それはまだ吸われていない精製された阿片であった。
上海租界では治外法権が敷かれているため、フランスにおける阿片の取り締まりは体制はとても薄い。なので貧困層やギャングがかつてのイギリスにもたらされて栽培されている阿片の闇取引を行っており、相当数の阿片が上海に蔓延している。それでも阿片戦争前に比べれば阿片は減ってきたが、まだまだ奥地では阿片の原料である芥子の栽培が依然として続けられている。上海は外観こそ西洋風の華麗な街だが、その裏では案外阿片の匂いが立ち込めているものなのだ。
アレンツは阿片の袋を拾い上げ、持ち主に返そうとしたが持ち主は既にどこかへ行ってしまった。仕方がないので内ポケットに阿片の袋をひっそりとしまいこんだ。