大切なステップ
今回は逸美sideです。
雲の上を歩いてるみたいに、足元がふわふわする。
「ただいまー・・・」
夢心地のままボンヤリと帰宅すると、マンガ雑誌を抱え階段を下りてきた直樹と鉢合わせた。
「あ、姉ちゃんおかえりー・・? な・・なんだよ?」
框にも上がらず玄関に立ったままジッと見つめてくる姉に、弟は心地悪そうにたじろいだ。
「・・背ぇ・・このくらいだったかも・・・」
まだまだ成長過程の直樹が玄関の框の上にいる。洋祐さんの身長、これくらいだったなぁと思い出していると、不審に思った直樹がすぐ目の前に迫り、鼻先でパタパタと手を振った。
「おーい、姉ちゃん! 大丈夫かぁ? 立ったまま寝てんじゃねーだろーなぁ?」
「・・・ちょっと直樹、何してんのよ?」
我に返り、真ん前で覗き込んでいる見慣れた顔を睨む。おでこを叩こうと腕を伸ばしたら、直前で「ハッ!」と雑誌を盾にしてあたしの攻撃を防いだ。
「ふっふっふ! やられてばかりのオレ様じゃないのだー」
「何バカなこと言ってんの。いいからそこ退いて。上がれないじゃない」
「いてっ!」
持っていたバッグで太股の辺りを叩き、ズズイと押しのけて家に入る。取り残された直樹が後ろで文句を言ってるけど、知らん振りしてダイニングへ向かった。
「ただいまぁ」
「おかえり。なーに?帰ってきて早々玄関で大騒ぎして」
夕飯の支度の真っ最中のお母さんが、呆れたように振り返る。
いいニオイに誘われて手元を覗き込む。ジュウジュウと焼けるお肉からはにんにくとショウガの匂いが漂ってくる。
「だって直樹が絡んで来るんだもん」
「ちっげーよ!! 姉ちゃんがボーっとしてたりワケわかんない事言ったりするから心配してやったんじゃネーか!」
「頼んでませんー」
後を追ってきた直樹と小学生みたいな口ゲンカを始めると、お母さんはやれやれとため息を吐いて、皿を取りに食器棚へ向かった。
付け合せに前もって作ってあったらしいポテトサラダを冷蔵庫から出し、キャベツのコールスローと一緒に皿に取り分ける。最初から確保してあったスペースにメインの豚の生姜焼きを盛れば完成!
そのほかにはワカメの味噌汁と、里芋とイカの煮物が作ってあった。
「・・・って、なあに?さっきからずっと眺めてて。そんなにオモシロい?」
いつの間にかケンカをやめ、身を乗り出すようにして作業を見つめていたせいか、訝しく思ったお母さんが微かに眉を顰めてあたしを見た。
「ん~? オモシロいとかじゃなくて、あたしもちゃんと家事を身につけた方がいいのかなぁと思って・・」
「そりゃそうよ。今時は必ずしも家事全般は妻の仕事ってワケじゃないけど、比率で言ったらきっと奥さんのほうがやることは多いはずだもの。旦那さんになる人の仕事にもよるけど、忙しくて殆ど家事は手伝えないって可能性もあるでしょ?」
旦那さんってフレーズを聞いた瞬間ドキッと胸が高鳴った。さっきまで会ってた彼の顔が思い浮かび、同時に帰宅してから気に留めてなかった(直樹とケンカしてたから?)左手薬指が・・ううん、薬指にはめた指輪が急に重さを主張しだして、そわそわと落ち着かない気持ちになった。
「あの、お母さん。ちょっと話があ・・」
「ただいま」
せっかく切り出そうとしていたところへお父さんが帰ってきた。
確かにすごく重要なことだから両親が揃ってる時に話したほうがいいのはわかってるんだけど、不安とか恥ずかしいとか、あと照れ臭いなんてカンジで、先にお母さんに報告して味方につけてからお父さんに話そうかなと思ったから、ちょっと予定が違ってアセる。
「おかえりなさーい。今日は早かったんですねぇ」
お母さんは手にしていたフライパンと菜箸をコンロの上に戻し、あたしの横をすり抜けてお父さんの隣に行く。玄関で脱いだらしいコートを受け取り、自室へと行ってしまった。
「もう! せっかく言おうと思ってたのに」
タイミングを逃すと言い難くなっちゃうよ。
どうしよう・・この後いつ切り出そうかと考え、ダイニングテーブルに手をついてハアァァァ・・と盛大に息を吐き出した。
「逸美」
てっきりお母さんの後に続いて自室へ着替えに行ったかと思ってたお父さんに呼ばれ、ビックリしてひゃあ!と悲鳴が漏れる。
ぐるぐる悩む姿をずっと見ていたらしく、「どうした?」と訊ねられた。
「ううん! なんでもないの! ちょっとお母さんに話したいコトがあって・・」
ブンブンと両手を振りなんでもないと言ったが、お父さんはあたしの態度から何かあったと察したのだろう。いつものように気遣う言葉をかけようと口を開き、そして何も言わず動きを止めた。
一点を凝視するお父さんの視線をたどる。そこにはあたしの左手。
今日、プロポーズされたあの後、彼につれられて駅を二つ移動しジュエリーショップへ。バレンタインに約束(?)したモノを二人一緒に選びに行った。
プラチナの台座に0.5カラットのダイヤモンド。「0.3カラットを選ぶ方が多いですね」との店員の言葉を無視して、彼はじっくりとガラスケースの中を検分し、試着させた中であたしに一番似合うものをプレゼントしてくれた。
あたしも凄く気に入ったからメチャクチャ嬉しくて、薬指にはめてもらった時はちょっぴり泣いちゃった。
「逸美」
やっぱり驚いてるみたい。それはそうよね。今朝お父さんが出かける前に会った時までチラリとも恋人の気配なんてなかったのに、帰宅してみたらシッカリちゃっかり婚約指輪らしきモノをつけてるなんて。
でもはじめこそやや目を丸くしたが、すぐに普段のお父さんに戻り、後で話そうと言い残して自室のある奥へ行ってしまった。
う~! どうしよう、緊張する。頭ごなしに反対するようなタイプじゃないけど・・・
不安になったあたしは急いで自分の部屋に駆け込むと、きっとまだ当然電車に乗っているだろう彼にメールを送る。本当は声を聞いて安心したかったけど、今は我慢。だって、ただでさえ帰宅する頃には深夜になってしまう彼に電話して、途中下車なんてさせたくないから。
彼がアパートに着くまで待つつもりだったのに、少しすると予想外にも彼のほうから電話がかかってきた。
『乗り換え待ちなんだ。メールで返信しようかとも思ったんだけど、少しでも声が聞きたくて』
背骨が溶けちゃいそうなくらい、ゲキ甘に響く彼の優しい声。カプセルでの交信の時にはほんの一言二言しか書けなかったし、声も顔も知らなかったから、彼がこんなに甘々なタイプだとは思わなかった。もちろん恋人じゃなかったからっていう理由もあるけど。
もし反対されたら何て言っていいかわからないと相談すると、彼はちょっとだけう~んと唸り、傍にお父さんがいるかと訊いてきた。
『俺から話そうと思ってね。挨拶もなしに帰って来てしまったのは俺も引っ掛かってたんだ』
なんで?と訊いたあたしに、緊張の色も感じられないあっさりとした彼の答え。たった3つしか変わらないはずなのに、落ち着いた様子がとてもオトナに感じられた。
・・・急にあたしも頑張らなきゃダメだと思った。彼の隣に立って、彼とともに生きてゆくために。
悪いことじゃないもの。それどころかとっても幸せなこと。両親への報告くらいでオロオロしてないで、ちゃんと背筋を伸ばして言うべきことを言わなきゃ。
電話の向こうで静かに待っててくれた彼に「やっぱり大丈夫」と告げる。
最初はちゃんと娘のあたしから話すと決めた。・・ウン、大丈夫。あたしのお父さんとお母さんだもん。あ、直樹もね。きっと心から喜んでくれる。
お付き合いをする経緯とか訊かれたらちょっと説明に困るかもだけど、隠したり嘘をついたりせず本当のことを言おうと決心した。
信じてくれるかは別だけど。
「気をつけて帰ってね」と言うと、向こうで彼は嬉しそうに笑う。通話を切ったあたしはお守り代わりに携帯を握り締めると階下へと下りた。
ダイニングではもうみんなが席について食事を始めていた。
お父さんは普通だけど、お母さんの様子はどことなくぎこちない。
「姉ちゃんのおかず、食っちゃうぞー」
のんきな直樹に救われる。話すのなら、ちょっとだけ緊張が解けた今。
「あのねっ、あたし・・」
勇気を出して一歩踏み出す。
あたしと彼、二人の未来のために。