その時の、こと10
「――っう、いったぁ……」
闇の中、自分の左腕を押さえて少女、チェイリルが小さく呻く。
゛あの時″一度無くした腕が時折、ズキズキと痛み疼くのだ。
腕は新しく゛生えて″、傷は完治してもう、随分と経つというのに。
「……っ……」
忌々しげに腕を見やり、唇を噛むチェイリル。
原因は、わかっている。
あの子が、あの時の夢を見ているからだ。
その度にこうして、切られた腕がひどく痛む。
あの時同じ場所にいたのだから、それはある意味仕方のない事で、同種族であるが故にどうしても、感応させられてしまうのだ。
魔力が常に貪られ続けている今、それはあの場所にいたあの子も同様の筈だが、此方があの時の夢を見ていた時の、あの子からの感応が帰ってきた事は、一度たりともない。
「……ほんっと、何もかも……、異常過ぎるわ……」
ぷつり、噛み締めた唇が裂け、裂け目からじわりと、小さな赤い玉がその顔を覗かせる。それは今にも、唇から滑り落ちていってしまいそうで。
「――あぁ、ダメだって」
と、それを痛ましげに見つめて、少年ナシグはチェイリルの傍へと歩み寄るとその細い顎を掬い上げ、自らの唇でそっと、その赤玉を吸い上げる。
するとチェイリルのその唇は、裂ける前の艶やかな、ぷるんとした状態に戻る。
「うん。こんなものかな」
呟いて満足そうに唇を撫で、愛おしむように目を細めにこりと微笑むナシグ。チェイリルにしか見せない、極上の笑み。
しかし直ぐ様その顔を曇らせると自らの頬をチェイリルの頬に擦り寄せ、その身体を微かに震える手で抱き締め、囁く。
「……姉さんに、傷ひとつでも付いたら……、もし、また何かあったら僕は……」
その声は掠れ、声に出した事で募った不安から、チェイリルの身体を抱き締める腕に力が入る。
「………………」
いつものように、それにひとつ息を吐いて。
チェイリルは苦笑するとその白い頭に手をやり、もう一方の手で細い背中を撫でながらあやすように、優しく優しく繰り返す。
「……シグ。大丈夫、大丈夫よ……。私はもう二度と、シグの前からいなくなるような事は、しないから。……貴方がいないと私は、生きていけないんだから……」
だから大丈夫。と言ってナシグがしたように、チェイリルもナシグの頬に自分の頬を擦り寄せると、その身体をきゅっと抱き締めた。
お互いがお互いを確かめ合うかように、互いの身体を強く抱く。
周りの闇に同化したかのように真っ黒なその漆黒の少女と、闇の中でも尚、いやだからこそその白を一層際立たせた真っ白な純白の少年は、互いを強く求めてやまない。
対極にいるが故にもう絶対に、交わる事はないからこそ。
強く惹かれ、求め合う。
それは、密味のする甘美な毒のようで。
一度味わってしまえば、もう後は溺れるように求め続け、瞬時にその奥底まで、一気に堕ちて行くしかない。
両親を戦で亡くし、生まれてすぐ、二人だけになってしまったチェイリルとナシグ。
閉鎖された、掟の厳しいその四季の郷で、幼い頃から互いが互いを必要とし、守ってきた二人には、互いが唯一の存在だった。
両親がいないというだけで一族の風当たりは厳しく、長の所に引き取られはしたが、それ故に更に風当たりが強くなったのは言うまでもなく、親族間からのやっかみは、日に日に酷くなるばかりだった。
長の親族達は特に闘争心が強く、四季の系統者として脱落した二人への扱いは、それはそれは酷いものだった。
子供の頃ならばまだ、ちょっと度を越えた悪戯、で済んでいたのだが、大きくなるにつれ、その悪戯はエスカレートしていくばかりだった。
死の境を、さ迷った事すらある程に。
その内親族だけに止まらず、一族全てでことある毎に引き合いに出されるようになったチェイリルとナシグは、その頃にはもう、それに何かを感じる事などなく、ただ、過ぎ去るのを待っているだけの状態だった。
何も反応を返さなければ、興味を無くして何処かに行ってくれる――……
それはこの痛みしかない世界を生き抜く為に、二人で考え付いたたった一つの、抵抗だった。
暫くはそれが功をそうして何もせず、立ち去る者達が大半だったのだが、それも、長くは続かなかった。
二人をいたぶる事を楽しみにしていた多くの者達は、それが出来なくなった事の物足りなさに、すぐ、耐えられなくなった。
そうして彼らは、とても、とても恐ろしい事を、考えついた。
それにより――
二人はもう、身も心もズタボロ寸前まで、陥った。
悪戯の粋を越え、あらゆる事の限りをつくされても尚、互いが其処にいるのならば、堪えていられたのだが。
何度目かのその後に、このまま二人で死んでもいいか、とまで思ったぐらいだった。
二人は二人でいられれば、それだけでよかったのだから。
お互いに、お互いしかいなかった二人は似通い過ぎていて、考えていた事はいつも、ぴたりと同じだった。
もう疲れた。もう、いいんじゃないか。
再び二人で廻りに還ろう、とまで思った。
しかし、その時起こったひとつの事件により、二人と彼等の立場は逆転する。
真に力ある者が――、この郷では強者だ。
だからこそ、長の一族の者達(彼等)は今まで示してきたのだ。
長の一族としての、その権力を。
それは、彼等一人ひとりが持っていた力ではなかったが、弱かったその頃の二人にとっては、確かに強き力だった。
弱者が強者に屈するのは、仕方の無い事で。
しかしそれはつまり、゛力″さえあれば、強者に屈する事などないのだと暗に示していて。
強者ならば、この郷から出ていく事だって容易いのだから。
それが、禁じられている事であったのだとしても。
強く(そう)なる為の全てを、事件の要人に接触し垣間見たチェイリルとナシグは、郷を出る事こそしなかったが、゛力″を得る為にあらゆる努力をした。
その事に専念してさえいれば、周りでのあらゆる事はほんの些細な事でしかなく、もう、気にならなくなっていた。
そうしている内にめきめきと力をつけた二人は、一度は脱落したものの四季の正統な系統者として認められ、いつの間にか、一族の間で一目置かれる存在になっていた。
今では一族の誰しもが、二人の元に媚びへつらいにやってくる。以前、二人をいたぶっていた者達までもが。
しかし、力を得たからといって、その力で仕返ししてやろう、などとは二人は思わなかった。
同類に落ちる気など更々なく、そんな事よりも、もっと大事な事が二人にはあった。
゛四季の者″としての、真の使命を果たすこと。
それがあの時、この郷を騒がせた要人に触れて見た、真実の事だった。
この事は、この郷の長ですら、きっと知りえはしないだろう。
事件の要人が――、この村を出た裏切り者が、何故そんな事を知っていたのかは解らないが、触れて見せられたその時、直感した。
これこそが、四季の者の本来の、役目なのだと。
それだけを胸に突き進んで来た二人に、ある時長から直々に命が下った。
数年前にこの郷を出た裏切り者を、始末せよとの命が。
長命には逆らえない。直ぐにでもと了承の旨を返し、その日の内に郷を出た二人だったのだが、その胸には、動揺が渦巻いていた。
四季の者である者を、外界に、この郷以外に置いておくのは、確かに危険極まる事だ。
いつ、この郷の事が知れるか、分からないのだから。
そうなれば、四季の者を根絶やしにせんと、各国総出の大勢で、押し寄せてくるに違いない。
それらから郷の者達を守る為に、裏切り者を始末しろと言うのは、当然である。
しかし何故、今なのか?
もっと早く、始末出来ていたのではないか?
裏切り者は、たった一人だったのだから。
それも、まだ十四、五程の少女である。
事件後すぐに、先鋭部隊でも差し向ければ仕留められた筈だ。
だがそうは、しなかった。いや、出来なかったのだろう。
いかに厳格な長といえど、一人の親としての心は持ち合わせていたようだ。
四季の郷を出た裏切り者。それは亡き妻の忘れ形見である、長の最愛の一人娘だったのだから。
だが、長は最愛の一人娘の親でいる事ではなく、一族の長としての道を選んだ。
それは、正しき事だった。一族を守る長としての務めなのだから。
たとえ、長が真実を知っていたとしても、きっと同じ事をしたんだろう。
裏切り者が、この郷にもう、決して戻らないのであれば。
ただ、始末する(その)役が、自分達に回ってきただけだ。そう思い込ませて、チェイリルとナシグは情報を頼りに、少女の元へと赴いた。
同情は、確かにあったと思う。しかし、同時にこれはひとつのチャンスなのではないか、と二人は思っていた。
ずっと、訊いてみたかったのだ。
あの゛真実″は、何処からもたらされたものなのか。
そして何故、郷を出たのか。
それらを聞いた上で、その少女に戻る意志があるのなら、穏便に郷に戻れるよう、口添えしてやってもいいと思っていた。
だがもし、それでも敵対しなければならないというのなら。
覚悟しなければならなかった。
同種間で争うなど寂しい事だし、ましてやそれが親からの命だなんて、哀しすぎる。
早くに親を亡くした二人だからこそ、誰よりも、その事に胸を痛めていた。
だから、思ってしまったのだ。
抵抗されたとしても、出来るだけ傷付けずに捕獲して、郷に、長の前に連れ帰ろうと。
自分達と同じ、たった二人きりの家族なのだから、きっとわかり合える筈だと。
しかし――
その愚かな甘さが。
任務だと割り切り、非道になれなかったその弱さが。
二人に、道を踏み外させる事となる。
少女達と、二人の思いは違わず同じだったのに。
しかしそのやり方は、大きく食い違ってしまった。
相容れぬ二つの力は激しく強くぶつかり合い、一つの悲劇を生み。
その果てに、両者は。
禁忌に、触れた――……




