第3R 何が彼女をそうさせたか
僕とノーザンスザクさんとアッパーグレードともう一頭の先輩と共に、京都にやって来た。
先輩は土曜日の準オープン、アッパーグレードは僕らと同じ日曜日の5レースの新馬戦。僕は9レース目のもちのき賞で、ノーザンスザクさんは第11Rのマイルチャンピオンシップ。
「これまでいろんな思い出があったけどね。涙を流した事もあれば、流させた事もあったわ」
「流させた事…」
「そう。私が負かした馬たちは、私が得ようとしていた物を得られなかった。もし私がお子ちゃまのまんまでいたら、その馬たちが笑っていたかもしれない」
そう軽く口にするノーザンスザクさんの姿は、同じマイルチャンピオンシップに出走するどの他の馬よりも大きい。四年間も競馬場に通って来た以上、いい思い出も悪い思い出も山のようにあるんだろう。ノーザンスザクさんが言う惨敗してその後お父さんに活を入れられたファンタジーステークスってレースもこの京都。
でもそのファンタジーステークスで勝った馬は、その後一勝もできないまま引退したらしい。確かに残酷な話であり、目の前のレースの重みが感じられる話だ。
「毎回毎回、全力投球かよ。そんな簡単に行けるのかね」
「とりあえず勝たない事には始まらないし」
「あっさりと言ってくれるね、この経験者が」
「勝てると思ってるから来てるんでしょ」
「あーそうだな。って言うかなんでよりによって一番なんだよ…」
アッパーグレードは不機嫌そうだけど、一勝目がなければ二勝目以降なんてない。みんな勝つためにここに来ている。
新馬戦も一勝クラスもGⅠも、それは同じはずだ。
そんな当然の事を言ったはずなのに、アッパーグレードはこっちを向いてくれない。
「ノーザンスザクさん…」
「緊張してるんでしょ、あなたと違ってね」
「ノーザンスザクさんは緊張しないんですか」
「私はもう一度吹っ切れちゃったから。でもそんなラッキーな馬なんてめったにいないから」
「ラッキーですか、それも…」
「まあそうね」
運も実力の内。それもまた勝負の真理かもしれない。
実際今回も、山本さんは黒い帽子を被っている。黒い帽子と言う事は内枠であり、最短距離だ。最短距離だからみんなが通ろうとし、後半になると馬場も荒れて遅くなる。だから内も外も同じだって事かもしれないけど、僕はやっぱり最短距離の内枠がいい。皆が来るのなんて同じじゃないか。だったら最初から少しでも近い方がいいに決まっている。だから一枠一番のアッパーグレードがなぜそんなに不機嫌なのか、僕にはわからない。アッパーグレードがそこまで気にしいだとは思えないけど、まあ僕と戦う相手が同じぐらい気にしいならばいいとは思っている事は否定しない。
で、僕のレース。
ゲートが開くと共に僕の両隣の馬が、どっちもいきなり逃げ出した。こっちは新馬戦と同じように中団から構えていたいのにめちゃくちゃ砂を被りまくる、ああ面倒くさい!
(何だ馬鹿野郎……)
でも同時に、馬鹿野郎にも見えた。僕でもわかる、あんなペースで飛ばしたらばてるに決まっている。後ろに目をやると、まるで二人を気にしている様子がない。そして山本さんもそれに気づいているから僕の事を急かさない。って言うかいつの間にか六番手ぐらいのはずが三番手になっていた。でもまあ、あんな無茶苦茶な事をしたらどうなるかわかってるはずなのに。
果たして直線、二頭とも一気に下がった。僕はあくまでも変わらない。山本さんの指示もないから。
あ、後ろが来た。ここだ。
今こそ、がら空きになった前を目指して走る時だ。
—————全て山本さんのおかげです。
結果は、それだけで十分だった。
ここだって思う所まで指示をこらえ、必要な時に出してくれた。その結果、僕はオープン馬になれた。
「…………」
「アッパーグレード…」
「おめでとさんだな」
「ありがとう」
アッパーグレードは不機嫌そうだった。
レースは見ていない。3着だった事だけは聞いている。悔しいのは当たり前だけど、それにしても気分が悪そうだった。
この後ノーザンスザクさんの最後のレースがあるって言うのに見る気すらなさそうな姿には、正直ガッカリだ。声をかけようとしてもとっくに向こうに行っちゃってるし、もったいないと思う。
とにかく、僕だけでも見ておかなければいけない。
「お前は平気なのか」
「みんな同じ条件でしょ」
「凄いね本当」
アッパーグレードに代わって付き合ってくれた先輩と共に聞く、GⅠのファンファーレ。実はこの前の時はスプリンターズステークスに出る先輩がいなかったため初めて聞いたけど、本当に気分が盛り上がる。
中にはレース前なのにうるさくて集中できないとか言う馬もいるけど、そんな大事な時に無駄に力を使う必要なんかない。集中できないんならそれは向こうのせいじゃないか。もちろん進んで迷惑をかけるような人は僕でもお断りだけど、何も言わずに座っていろだなんてそれこそ気持ち悪い。声援はありがたい物だし、その人たちのおかげで僕らはやっていけてるんだから文句ばっかり言うもんじゃないと思う。
ちなみにノーザンスザクさんは一番人気。
引退レースだからなのかわからないかど今年の安田記念や皐月賞、ヴィクトリアマイルの勝ち馬などたくさんの有力馬を差し置いての一番人気。
正直あまりうらやましくない。一番人気なんてならなくても一着があればいい。僕だってさっきのレースは新馬戦と同じ四番人気だった。次は相手がもっと強くなるだろうから人気も上がらない、それでいい。勝手に上がるんならば嫌じゃないけど。
「やっぱ落ち着いてるよな、この年になってもまだオープンに上がれない俺とは全然違う…」
ゲート入りもスムーズだ。僕らの頃に暴れ者だったらしいとはとても思えない。みんな年を取るとああなるんだろうか。
でも、ゲートを入ってから開くまで、油断はならない。何をするのか、どんな事をする気なのか。それは聞いていない。
「ああっとノーザンスザク、いきなり先頭に立った!」
そして、僕らの度肝を抜いた。
確かに阪神ジュベナイルフィリーズの時はヒガシノゲンブさん譲りのとんでもない逃げ足を発揮してたけど、桜花賞からは普通に走っていた。
あれから四年分のレースを見たはずなのに、こんな事はやっていなかった。
誰も追いかけない。止まると思われているのか、それとも予想外の手段にやられて動けないのか。
あわててノーザンスザクさんの方を見たけど、実に涼しい顔をしている。
あれが、名馬中の名馬の姿なのか。僕らとは全く次元の違う、本当の超一流の存在の姿なのか。
「何ポーっとしてるんだよ」
「し、しますよあんなの!」
「確かにな、でもあんな境地にたどり着けるのはそれこそ千頭どころか一万頭に一頭だぞ」
「一万分の一…」
「並のGⅠ馬じゃ追い付けない。まあGⅠ自体ものすごい事だけどな」
GⅠを勝ってもああなれないのか。本当に遠い世界の存在だ。
何としても目に焼き付けておかねばならない。両目を必死に見開き、勝利の瞬間を見届ける。
「あ…」
でも、ノーザンスザクさんがゴール版を一番で駆け抜けた瞬間出た声は、歓声でも何でもないあまりにも間抜けな声だった。
足が、痛くなった。
痛みに負けずに必死に目と耳を動かしたけど、身体は動かない。
それが僕とノーザンスザクさんの、実質最後のお話の機会だったのにだ。




