第54話:《寂滅の目盛り》
【第一幕:返還——死せる物の重さ】
東京、暁光が精密な目盛りの如く。
1. **石原夫人**はひび割れた指輪を握りしめ、金属の冷たさが骨髄から滲み出るようだった。隣人たちは精密なシルエットのようにすれ違い、「家」という字の画が彼女の脳裏で音もなく分解していく。
黒いセダンは音もなく滑り去った。石原夫人は冷たい光の中に立ち、指に何かを押し込まれた。あの指輪だ。それは冷たく、曇り、**蜘蛛の巣**のような細かいひび割れに覆われていた。かつて内に流れていた「守護の約束」という温もりは、きれいさっぱり消え失せていた。今やそれは複雑な形をした金属の塊で、普通の鉄片よりも冷たい——全ての熱を吸収した後の、絶対的な「無」だった。
彼女は無意識にそれを嵌めようとした。指先が皮膚に触れた瞬間、安心感ではなく、わずかな、吐き気を催すような麻痺感が走った。まるで皮膚のその小さな「生きている」という属性が一時的に否定されたかのようだ。彼女は固まり、それを白くなるほど強く握りしめた。見上げると、近所の人々は静かに出勤し、静かにゴミを出し、静かにすれ違っていった。視線は交わらず、口元には微笑みもなく、朝特有の**眠気**さえもが規範的で画一的なものに思えた。
彼女は突然、自分がなぜここに立っているのか思い出せなくなった。「家」という字の画が、脳裏で緩み、分解し始めた。
2. ピーター・チャンは、灰色く濁ったブレスレットを眺め、口を開こうとして、「挨拶」という行為の動機が神経細胞から抜き取られていることに気づいた。繋がりは死に、隔たりだけが実体として残る。
彼は段ボールの山の傍らで意識を取り戻した。手首には、返却されたブレスレットがあった。編まれた紐は全ての温もりある光沢を失い、焼け焦げた灰のように色褪せ、触れば切れそうだった。かつてそれを介して感じた、言葉を越えた笑い声や、肩を並べた熱量は、今や物質的な繊維の粗さだけとして残っている。彼は友人の顔を思い出そうとしたが、脳裏に浮かんだのは実験室の天井の刺すような灯光と、エネルギーを引き抜かれる時の、魂のレベルで「ネジを緩められる」ような異様な感覚だった。
一人のサラリーマンが無言で彼の横を通り過ぎた。靴音は正確で、均一的で、情緒がなかった。ピーターは口を開いた。喉の筋肉が収縮した。しかし、彼は「無意味な挨拶を発する」という行為の動機と能力を失っていることに気づいた。声は乾いた声帯に詰まった。彼はブレスレットを見つめ、初めて理解した。「隔たり」は距離ではなく、「繋がり」という概念そのものの死なのだ、と。
3. アーサーはペンダントを握りしめ、鋭い縁が唯一の現実だった。砂場では、子供たちが幾何学的に完璧な砂の城を積み上げ、陽の光の下、彼らの影は設計図のように整然としている。
彼はベンチに座っていた。まるで長くて空虚な昼寝から覚めたばかりのように。ペンダントは、彼の広げた掌の上に、窓飾りの安価なガラス細工のように静かに横たわっていた。内側は濁り、霊光は微塵もない。
目を閉じ、暗闇を支えてきた「信念」を心の中で呼びかけた。応答はない。光はない。ただ、広大な、平坦な静寂だけが広がる。信念は砕かれたのではなく、希釈され、均質化され、いかなる行為にも追加の「意味」を与えられないほどに薄められてしまった。
砂場では、数人の子供が砂遊びをしていた。動作は精確で、はしゃぎ声も、言い争いも、失敗からのやり直しもない。彼らは標準的で、幾何学的な「砂の城」を積み上げ、そして静かにそれを見つめた。陽光は彼らの無表情な小さな顔を照らす。アーサーはペンダントを握りしめ、鋭い縁が皮膚を刺した。その痛みが、今、唯一の現実的な感覚だった——しかし、それもまた無意味なものに過ぎない。
この三人、そして語られることのなかった無数の他の人々が、「静寂」の最初の標準住人となった。手に握りしめるものは、旧世界の墓碑銘の欠片であった。
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### **【第二幕:棄てられしものと狂気——「塵」と定点湮滅】**
「揺りかご」最深部、エアロックの前。
阿楽は、機能をわずか1%しか残さない、精巧な人形のような琪琪をしっかりと抱きかかえていた。二人の黒服の護衛が左右から彼の腕を掴み、ほとんど引きずるようにして重厚なエアロックの前に連れて行った。言葉はなく、説明もなく、金属床を引きずる軋む音と押し殺した息遣いだけがあった。
ドアが開き、外には荒涼とした朝の光と冷気が広がっていた。
一人の護衛が阿楽の背後から、予告なく強く押した。
「うっ!」阿楽はバランスを崩し、よろめいた。しかし転倒する直前の一瞬、彼は本能的に体を丸め、琪琪をしっかりと胸に抱き寄せ、自分の背中と腕で地面との衝撃を受け止めた。砂埃が舞い、彼はうめき声を漏らした。懐の中の琪琪は無傷だった。
彼はよろめきながら振り返った。合金製の重厚な扉が音もなく閉じていくだけだった。滑らかな金属面には、自分の惨めな姿が映っているだけである。彼らは、ゴミのように引きずり出され、そして蹴り出されたのだった。
同じ瞬間、最深部の鏡の間。
御前龍之介の視線は監視画面を掠め、阿楽が転倒する映像には一秒も留まらず、最終的にメインスクリーン——エネルギー視覚化された飛騨地方の地図——に釘付けになった。平心湯亜空間の中核を表すかすかな暖色の光暈は、静寂に染まりつつあるその山間部において、釘のように眼障りだった。
彼の顔から笑みが消え、口元が神経質に痙攣した。
「……最後の雑音だ」彼は呟き、瞳孔が縮んだ。「この山域から、徹底的に消毒しよう」
彼は隠しインターフェースを呼び出し、自ら指令を入力した。座標精度を飛騨地方、特に平心湯が存在する中核地域に固定する。これは指向性のある地域湮滅である。
《ワルキューレの騎行》がクライマックスに達した。
御前は手を上げ、狂気と絶対的冷静が混ざり合った力で、コントロールパネルを叩いた。
バン!——ブーン————
一本の極細で、極めて深い暗黒の脈衝が放たれ、地図を貫き、山脈の中のあの頑固な暖色の光に正確に命中した!
光暈は激しく震え、歪み、最終的に消え、周囲と変わらぬ冷たい深い青に墜ちていった。
監視ノードが記録する:
【地域愛エネルギー指数(飛騨地方):3.1% → 0.1%】
【警告:定点『情感的真空』達成】
御前は息を切らし、額に汗を光らせ、その「純粋」な青色を見つめて、満足感に満ちた空虚な笑みを浮かべた。
低優先度の警報が一つポップアップした:
【未分類微弱諧波信号を検出。識別番号:残存システムエラー-001。放出ユニット「阿楽/琪琪」との生体特徴一致率99.7%。市街地方向に移動中。】
御前は一瞥し、視線はスキャナーのようだった。
「……分解中の塵か」彼は軽く言い、さっと 「監視/浄化(低優先度)」 とマークを付け、一台の 「環境清掃無人ユニット」 の起動と追跡を許可した。
彼にとって、これは落ち葉を掃くのと変わらぬ行為である。
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### **【第三幕:孤島——戦術的回避と遠い視座】**
平心湯、亜空間。
ここの「空気」の中では、愛エネルギーが一定の力によって3%に錨泊されていた。嵐の目の中心の平静な点のようだ。外部は0.1%の吸収的な真空だが、ここの境界はまだはっきりとしている。
天神は壁にもたれかかり、目を軽く閉じていた。
彼の姿勢は虚弱というより、深遠な休息というものに近い。顔色は落ち着いており、呼吸は長くゆったりしている。ただ眉間に、長く集中した後の淡い疲労の影が浮かんでいる。まるで深慮遠謀を巡らせる棋士が、一手の合間に目を閉じて養生するかのようだ。彼の「休息」は、戦術の一部であり、より長期的な布石のためのものだ。
加美が静かに傍らに立っていた。星光の翼はほぼ元通りになっていたが、その眼差しはより静謐で、傍らを守っていた。
天神の意識は眠ってはいなかった。彼の全身から発せられる気配は、亜空間全体と微かに共鳴し、低消費電力の待機状態に入りつつも、中核センサーは全開のシステムのようだった。彼は外部の破滅的な墜落(飛騨地方の**愛エネルギーがゼロに帰した**)を感知できたし、絶境を移動する二つの微弱な信号をも感知していた。
彼の口元が、ほとんど見分けられないほど、かすかに動いた。
それは笑みではなく、むしろ確認に近いものだった。
為すべきことは、全て為した。種は蒔かれ、**試練の舞台**は整えられた。今は少しの時間が必要だ。運命の**塵**が、ゆっくりと定着するのを待つ。
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### **【第四幕:帰路——真空の中の蛍火と、暖まる幻覚】**
愛エネルギー0.1%の荒野を走る一両の電車。
車内は音の墓場だった。乗客は**蝋人形のように並んで座り**、世界は物理的な雑音の残滓だけが残る。
阿楽と琪琪は隅に座っていた。彼は、彼女が膝の上に置いた冷たい手を、しっかりと握りしめていた。
最初は、冷たさとその微かな痺れる感覚だけだった。しかし電車が揺れ、道程が進むにつれ、阿楽はふとぼんやりとした。
……彼女の指先の温度が、さっきより……少しだけ暖かくなってはいないか?
とても微妙で、冬の夜に吐く一息の白い息のように、一瞬で消えてしまいそうだ。彼にはわからなかった。これは自分が過度に望むあまりに生じた幻覚なのか、それともあの非効率で哀れな「充電」が、本当に少しずつ、じわじわと、焦るほどゆっくりと、何かしらの温もりを伝えているのか。
彼は確信が持てず、むしろ手を離すことなどできなかった。逆に、より強く握りしめ、そのあるかないかの温度の変化を、掌に留めようとするかのようだった。
窓の外は、死のように静まり返った世界。
(追い出された……)
(世界は……こうなってしまった。)
(でも、彼女の手は……どうやら……)
疑問と、その微かな温もりが絡み合った。荒廃した心の奥で、絶望よりも頑固な何かが、この不確かな暖かさによって、ひっそりと動き始めた。
電車は駅に着いた。
阿楽は深く息を吸い、琪琪を背負い、微かに暖かくなったかもしれないその手を握ったまま、0.1%の荒野へと足を踏み出した。彼の歩みは、突き出された直後よりも、一分、しっかりしていた。
彼らの後方、ホームの陰で、一台の銀灰色の「清掃ユニット」のセンサーが音もなく回転し、記録を続けていた。
寂滅の目盛りは、0.1%を指し示した。
蛍火は微かながら、次第に暖かみを帯びる。
**塵が定まる時**、鏡面が眼を開く刻となるだろう。
(第54話《寂滅の目盛り》・了)
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