第50話 「泥濘に根を張る行政ネットワーク」
【開場:静かな帰還】
第一段(夜の帰還)
時間:第49話の夜8時17分
場所:平心湯玄関、夜は深く
杉本健一は扉の前に立ち、旅の細かい雨がまだジャケットの肩に滲んでいる。彼はベルを鳴らさず、ただ静かに立っていた。
襖が滑り開き、暖かい黄色い光が漏れた。天神は羽織をはおり、片手に半分のせんべいを持っていた。「おかえり」
「ただいま」杉本は言った。声は低く、粗い砂利を磨いたようだ。
「入りなさい、ご飯を取っておいたよ」天神は体を横にした。「ただ、お味噌汁は少し冷めているかもしれない」
杉本は首を振った。「まず荷物を置きます。明日の朝早く……ちょっと視察に行きたいんです」
「視察?」天神が眉を上げた。
「あの宣伝車を」杉本は目を上げた。影に沈んだ視線に、光が宿っていた。「あの運営パターンをこの目で確かめたい」
天神は笑い、せんべいを一口かじった。「じゃあ、明日は早く起きなさい。騒音が一番正確なのは、朝一番の巡回だからね」
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第二段(朝の出発)
時間:翌日午前5時43分
場所:平心湯玄関、朝霧がまだ晴れない
杉本はきちんと身支度を整え、使い古したブリーフケースを手に持っていた。扉を開けると、天神が廊下に立ち、マグカップを捧げ持っているのに気づいた。
「こんな朝早くから、霧を吸いに散歩か?」天神は別の杯の生姜茶を差し出した。
杉本はそれを受け取った。「データを記録しに行きます。すぐ戻ります」
彼は霧の中へ歩み去り、後姿は次第に薄くなった。天神はお茶をすすり、小声で呟いた。「根が……張り始めたな」
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【第一幕:根系ネットワークとビデオ会議・午後3時21分】
場所:杉本が仮に使っている物置部屋(すでに戦況室となっている)
状態:壁には地図、タイムテーブル、手書きの法令条文の要約が貼り詰められている。部屋の中央には、タブレットがすでにセットアップされている。
杉本は路線図を指さし、琪琪に言った。「過去7時間、20台の車の通過間隔は2分17秒で安定している。区を跨いだ登録の抜け穴が明らかだ」
琪琪の瞳孔はデータストリームの微光を帯びていた。「手書き記録と公開GPSデータを照合しました。一致率98.7%。『組織的嫌がらせの意図』の初步的証拠連鎖を構成します」
「まだ足りない」杉本は名刺を一枚取り出し、琪琪に見せた。
名刺にはこう書かれている:
環境省 大気生活環境室
主任調査官・渡辺徹
「彼にはふたつ、借りがある。ひとつめは言えない。ふたつめは」杉本は間を置いた。「彼の娘が友人から平心湯の話を聞き、ずっと来たがっていたが、予約が取れなかった。琪琪、お願いだ。彼の家族に『温かい家族週末』の予約を、すぐに手配してほしい」
琪琪の瞳にデータストリームが走り過ぎた。「指令確認。予約を生成し、特別承認済み。確認メールは3秒前に渡辺家のメインアドレスに送信されました」
ほとんど同時に、杉本の携帯が振動した。渡辺からのメッセージだ。
「健一!!!娘が今、携帯を見せながら叫んでる!メール届いた!妻と今、何を持っていくか興奮して話してる!!お前って奴は……!」
次のメッセージ:
「……さて、今回はどうやってこの借りを返せっていうんだ?」
杉本はメッセージを見つめ、渡辺に直接電話をかけた。
「もしもし?健一?まさか今すぐ返せって言うんじゃないよな?」渡辺の声が向こうから聞こえる。背景は少し賑やかで、少女の興奮した話し声と妻の優しい笑い声がかすかに聞こえる。明らかに自宅だ。
「今、いいですか?」杉本は平静な口調で。「こちらで緊急の資料があります。あなたの専門的な意見が必要です。可能なら、ビデオ会議で詳しく話しませんか?」
電話の向こうで2秒間沈黙が続き、背景音が急速に小さくなった。渡辺が受話器を押さえたり、場所を移動したりしたようだ。「……そんなに急?5分待って。静かな部屋を探す」
5分後、タブレットの画面に渡辺徹の顔が映し出された。背景は質素な書斎で、とても静かだ。彼は疲れた様子だが、目は集中している。
「よし、健一。何を発見した?」渡辺は単刀直入に聞いた。
杉本はカメラを壁の地図、タイムテーブル、条文の要約に向け、簡潔に力強く説明し始めた。琪琪は傍らで適宜データ分析を補足し、「騒音の合間の『不安脳波指数』が瞬間的に回復する」という決定的な証拠も示した。
画面の向こうの渡辺は、表情を次第に険しくしていった。彼は素早くメモを取り、時折鋭い行政手続き上の質問を投げかけたが、杉本はすべてに淀みなく答えた。
説明を聞き終え、渡辺は眼鏡を外し、眉間を揉んだ。「組織的な地域への嫌がらせか……証拠連鎖は見事にまとまっているな……健一、君が計画局を去ったのは彼らの損失だ」
「では、」杉本はカメラを直視して言った。「どれくらいかかりますか?」
「通常の手続きなら、省庁間の調整だけで2週間はかかる」渡辺は再び眼鏡をかけ直したが、今度は口元にほんのり暖かい微笑みが浮かんだ。「でも、うちの娘は……予約確認メールを受け取ってから、自分でスケジュール表を描き始めたんだ。『あの週末を楽しみにしているだけで、今週の通学路が軽やかに感じる』って」
彼は深く息を吸い、目つきが鋭く決然としたものに変わった。「2日くれ。48時間以内に、共同行政指導の草案を、決裁が必要な人の机の上に載せる」
「お願いします」杉本は重々しく言った。
「こっちが礼を言わなきゃ」渡辺は首を振り、笑った。「あの子の、珍しい笑顔のためにね。会議はここまでにする。すぐに動き始めるから」
通信が切れた。
杉本は琪琪を見た。琪琪は淡々と報告した。「渡辺調査官の現在の権限、動機、行政ネットワークモデルに基づくと、彼が約束した48時間での達成確率は89.3%です」
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【第二幕:分裂する温もり・午前11時03分】
場所:清水湯の前
偽物の熱狂的なファン、金髪の青年(店長の顔にほとんどスマホを押しつけるように):「店長!平心湯には特別な効能があるんです!魂を浄化するんです!あなた方のような普通の温泉では、ただ体を洗っているだけです!」
もう一人が自撮り棒を掲げる:「配信ルームの皆さん見てください!これが伝統的な業の壁に閉ざされた店主です!」
石原さんが駆けつけてくる:「何をしているんです!」
金髪の青年は彼女に向き直った:「会長!平心湯を『この街で唯一の霊性温泉』として支持することを発表してください!これが未来です!」
「でたらめ!」石原さんの声は震えていた。「平心湯は決してそんな——」
「そうじゃないんですか?」青年は偽造の「会員制階級図」を見せた。「見てください!『聖地守護者』クラス年費100万円、『周辺の劣質温泉を駆逐する』祈祷サービス付き!これはあなた方が黙認しているんじゃないですか!」
遠くで:竹之湯の若い従業員がそれを見つめ、LINEのグループに次のように入力する。
「清水湯がやられました。次は私たちですか?」
既読:4。返信はない。
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【第三幕:妄執の抑制と星の翼・午後3時30分】
場所:天神の部屋
状態:加美が「戦術抑制型妄執モード」に入っている
加美は床の上を行ったり来たり這い回り、背中には星の光が凝縮したような六枚の戦気の翼の虚像が、彼女の焦燥のリズムに合わせて明滅しながら浮かんでいる。「ダメダメダメ……天神様!あの宣伝車にちょっと細工させてください!GPSデータを少し弄るだけでいいんです、全部東京湾の埋立地にナビゲートさせて!無人地帯で『平心湯は世界の光』を延々ループ再生させて、バッテリーが尽きるまで——」
「ちゃんと座りなさい」天神はお茶を淹れている。
加美は飛び上がって正座した。星の翼が「ぷっ」と音を立てて消えたが、膝はまだ震えている。「これでシステム障害みたいに見えます!自然に発生した事故です!」
「お茶を飲みなさい」天神は湯呑を差し出した。
加美はがぶ飲みし、舌を火傷して舌を出す。「でも!この『分裂する温もり』は、すべての真心を冒涜しています!」
天神は彼女を見つめ、目に深みのある微笑みを浮かべた。「君の怒りは、温もりのもう一つの側面だ。『最小限の対抗措置』の実行を許可する」
加美の瞳孔が開いた。星の翼の虚像が再び興奮してきらめき始めた。
「君の考え通り、奴らのGPSを弄るがいい」天神は言った。「ただし、一度に全部変えてはいけない。毎日ほんの少しずつ、軌道をずらしていく。7日目に『ちょうど』全台が埋立地をさまようように。自然発生したソフトウェアのエラーのように見せなければ」
彼は一口、お茶をすすった。「最も高度な対抗策は、相手に逃げ道を与えることだ。奴ら自身が『装置の故障』に気づけば、自然と撤退するだろう」
加美は瞬間的に真っ赤になった顔を手で覆い、星の翼が喜びのさざ波のような光を放った。「あああああこの優しくて狡猾な罠はなんて尊くて卑怯なんでしょう昇華しそうです——」
「行きなさい」天神が手を振った。
「遵命!」加美は星の光と共に空中へ消えた。
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【第四幕:怒りから静寂への転化・午後5時18分】
場所:温泉街の公共ベンチエリア
阿楽はベンチに座り、足元の木箱には約50個の彫り上げられた木製キーホルダーが入っていた——どれもシンプルで温かみのある「平心湯の軒先」の輪郭だ。
彼の手は朝から止まっていない。彫るリズムは、最初は騒音に引き起こされた、少し怒りを含んだせかせかしたものから、次第に深い静寂へと沈殿していった。15個目を彫り終えた時、幸運ちゃん——あの三毛猫——がいつしか足元にやってきて、丸くなって彼に寄り添っていた。その温かな伴侶が、彼の心をますます落ち着かせていった。
宣伝車の騒音が炸裂するたびに、彼は深く息を吸い、刃を木目のさらに深くへと導いた。まるで喧騒の中に、自分だけの静かな川を切り開いていくようだった。
偽ファンに嫌がらせを受けた、疲れた面持ちの中年女性が通りかかり、足を止めて、それらのキーホルダーに目をやった。「これ……売り物ですか?」
阿楽は顔を上げ、静かな微笑みを彼女に贈った。「プレゼントです。もし必要なら」
彼は完成したばかりのキーホルダーを一つ差し出した。「今日彫った53個目です。創造に没頭していると、だんだん世界の雑音が聞こえなくなるって聞きます」
女性はそれを受け取った。木の温もりが手のひらから伝わってくる。彼女はしばらくそれを握りしめ、小声で言った。「娘が最近『心を浄化する場所』に行きたいってばかりで、騙されやしないか心配で……」
阿楽は直接には答えず、ただまた木っ端を手に取り、刃が落ちた。細かい木屑が時の流れのようにさらさらと落ちた。彼は木屑を吹き飛ばし、声はとても軽かった。「この世界には時々、雑音が多いですね。もしかすると、まず自分の心の声に耳を傾けてみて、何が真実か見極めることができるかもしれません」
女性は黙った。それ以上は何も言わず、ただその軒先の形をしたキーホルダーを、自分のバッグにそっと掛けた。
「……ありがとう」彼女は言い、ゆっくりと、少し背筋を伸ばして去っていった。
遠くで:竹之湯の若い従業員が窓越しにこの光景を見て、携帯を手に取り、LINEグループを開き、以前に入れたあの不安に満ちた愚痴を、一字、一字、削除していった。
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【第五幕:翌日昼・データの根系と昼食】
時間:二日目 午後12時15分
場所:平心湯の台所とそれに続く小食堂
状態:昼食の準備中。山田が新しく取った出汁の味見をしており、美雪が茶碗と箸を並べている。
琪琪が台所の入り口に立ち、最新データを報告する。「正午までのところ、地球愛エネルギー指数は67.6%で安定しています。温泉街エリアの『感情的緩衝靭性』指標は引き続き上昇中です。また、宣伝車隊のGPSデータに、微小ながら規則的な集団的偏移が生じ始めており、『自然故障』モデルに合致しています」
山田は杓文字ですくった汁をふうふう吹き、琪琪に渡した。「味見してみて」
琪琪は受け取って飲み、瞳孔が瞬時に温かな淡黄色の輪に染まった。「……これは?」
「『根菜の味噌汁』だ。ゴボウ、レンコン、カブ、少し土をつけたまま洗って、皮ごと煮込む」山田は窓の外を見つめながら言った。「土の風味がポイントだ。人は忘れてしまう、最も確固たる力は、みな土から生まれてくるってことをな」
彼は鍋をかき混ぜ、湯気が横顔をぼかした。「杉本さんが持ち帰ったあの『行政的反撃』資料、こっそり見たよ。しっかりしている、力強い」
「ひとりの若者の前向きな変化が」山田の声は鍋の中の味噌汁のように落ち着いていた。「時には、ちょうどこの温泉街全体を安心させるのに十分な力になるんだ」
その時、天神が食堂に入ってきた。手には一皿の漬物を持ち、皆に笑顔で言った。
「昼食の準備はできたかい?みんな集まって食べよう。山田が一晩中煮込んだ根菜の味噌汁と、私の漬けた特製大根がある。お腹いっぱい食べてこそ、根を張り芽を出す力が湧くからね」
彼の視線は皆を一巡し、最後に戦況室から出てきたばかりの杉本の上で止まり、軽くうなずいた。
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【結末:根系の交わりと昼食への招待・三日目 午前11時30分】
場所:温泉街臨時の町内会(清水湯二階の和室)
時間:杉本が帰ってきて三日目の午前。陽光が窓格子から差し込む。
参加者:石原さん、各旅館の店主たち、杉本、そして氷川グループの弁護士・椎名
椎名弁護士がプロジェクターを開け、簡潔に要点を述べた。「皆様、徹夜の推進を経て、突破口は開かれました」彼女は主要な法律条文と、新しい文書のスキャンを表示した——「こちらが環境省と総務省が本日正式に発出する予定の『共同行政指導』草案です。対象は明確です」
一同は息をのんだ。草案の右下には、すでに両省庁の鮮明な「室長決裁」の印が押されていた。
「これ……提言から決裁まで、48時間もかかっていない……」竹之湯の主人が思わず呟き、声には信じられないという思いがにじんでいた。
椎名は杉本を見て、目に専門家としての称賛の色を浮かべた。「これは杉本さんが提供された極めて精緻な証拠連鎖のおかげです。また、」彼女はほほえんだ。「ある匿名の環境省主任調査官が、最高優先度でこの草案を推し進めてくださいました。この効率は、システム内でも模範的と言えるでしょう」
石原さんは立ち上がり、杉本に深々と頭を下げた。「杉本さん、本当に……心から感謝いたします」
杉本はそっと首を振り、声は安定していた。「私はただ、やるべきことを、正しい方法でやり終えただけです。ルールそのものが、守るべき人と場所を守るためにあるべきです」
その時、窓の外から宣伝車の音が聞こえてきた——しかし、とても奇妙に聞こえた。
あの車のエンジン音は苦しそうで、走行速度は緩慢だった。スピーカーから流れる「平心湯~はあなたの心の帰る場所~」は音量が減っているだけでなく、奇妙な震えと途切れが混じっていた。さらに目を引くのは、車両の走行経路がためらいがちで、混雑していない道路でやや歪んだ軌跡を描いていることだった。運転手は頻繁にうつむいてナビゲーションを確認し、困惑した表情を浮かべていた。
椎名弁護士は優雅に眉を上げ、窓の外を見やった。「……ある工業製品の『計画的老朽化』のタイミングは、いつも絶妙に計られているようですね」
杉本だけが気づいた——向かいの屋根の晴れた空の下で、六枚の星の光芒のように淡い翼の虚像が、人間の視覚では捉えきれない速さで一瞬きらめき、消えた。空気には、いたずらが成功したような、かすかな愉しい波動が残っているようだった。
会議室の扉がそっと開けられ、天神が顔を覗かせた。手には洗ったばかりの水大根を持っている。
「会議はそろそろ終わりかな?ちょうどいい、昼食の準備ができたよ。山田の根菜の味噌汁もいい火加減だし、私の漬けた大根も丁度いい味になっている。どんなに大事なことでも、まずは腹ごしらえをしないとな」
彼の言葉はありふれたものだったが、まるで温かな錨のように、「奇跡的な効率」と「異常な故障」を目撃したばかりの皆を、生活の息吹に満ちた「今」という時間に、しっかりと引き戻した。
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【第50話・完】
皆さま、いつも応援していただき本当にありがとうございます。
皆さまの読んでくださる一つ一つが、私にとって最大の力となっています。
これからも心を込めて物語を書き続けますので、楽しんでいただければ幸いです。
心から感謝申し上げます。




