第40章:人生最後のクラス会(4):1996年、鬼怒川温泉ホテルでのクラス会(その1)
・・・また話がさかのぼってしまうが、
ここでは、1996年に、栃木県の代表的な観光地、
鬼怒川で行なわれた、ぼくの母校、矢板東高等学校の「3年6組クラス会」での出来事を紹介しておきたいと思う。
前章・前々章あたりで、現役の高校生時代に・・・
ぼくと藤田先生との間に横たわっていた「深すぎる溝」なり、
「岩のような確執」
「まるで、『八つ墓村の祟り』のような因縁」
・・・などをお話したばかりである。
いまではそういった感情も「浄化」・・・ついには「昇華」のカタチさえ見せるようになってきていて、
ぼく自身・・・人間的にも、男としても、非常に成長できたのではないか・・・このように自己評価できている次第だ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
・・・この日、1996年秋口。
現役当時、親友だった「弓井君」と「加藤君」とぼくとの3人で、
クラス会の会場となっていた、温泉ホテルに、仲良く連れ立って、ぼくの愛車のイスズ・ジェミニに乗って、おもむいた。
・・・卒業以来、はじめて正式に開催される、元・担任の藤田先生をまじえた同窓会。
ぼくは・・・
宇都宮大学の農学部に合格しながら、ソレを蹴って、矢板市の市役所に就職した「小林じん子ちゃん」以外では、
唯一、この3年6組で、
「4年制の大学」への進学ができなかった生徒だ。
ちなみに、弓井君は岩手大学に・・・
加藤君は、芝浦工大に、それぞれ受かっている。
ぼくの、1989年における二次試験の様子は、
ぼくが弓井君とそろって受験した「岩手大学」とともに併願し、二次試験を受けてきた「福島大学」のエピソードなどとともに、いずれ、あらためて、読者の皆様へ紹介したいと考えている。
(※)ぼくらは、センター試験の前身であった、「共通一次試験」最後の受験生でしたが、ぼくみたいに壊滅的な試験結果の生徒でも、一応、岩手大学と福島大学の二次試験受験資格のボーダーライン・・・つまり、「合格最低点」はクリアできていたようですな。
ちなみに、共通一次試験の自己採点の結果は、1000点満点中、350点でしたぜ。
もう、笑うしかないっすよ。
はははは・・・は・・・。
今回のエッセイでは、
あくまでも「東大挑戦」の話題にしぼらせていただきたいと・・・
そのように思う。