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ならばなぜまずここからの脱出を試みなかったかといえば、俺がまだ正常な精神を保っているからだろう。
一言で言うならば、この施設にいる人間、白服たちも非検体らもどうやら狂っている。しかし俺はこのように、なぜか一人だけ理性がある。いや、俺だけが違うということは、ここでは俺がおかしいのだ。
もはやどちらが正しいのか、正常なのか、分からなくなってしまっているが、ただ言えるのは、俺以外の被検体は施設の人間と同じような表情をしているということだ。彼らは、まるで既に死んでいて、死体が動いているかのような生気の無さである。
きっと少し前までは俺もこんな様子だったのだろう。この機械迷路へ入っていく被検体らもまた、皆トイレにでもいくような様子で自然に入っていく。だがその様子は、俺の目にはアンコウの口に自ら入っていく小魚のように映った。
あの場所はこの施設の中でも抜きんでて異常だ。異常で、超常で、非常だ。俺と同じ正常な人間であれば誰でも共感できるだろう。あれはこの世のものではない。
しかし選択肢が変わった以上、最低限策は練り直さねばなるまい。脱走の失敗を経て、多少変化したこともあるのだ。今一度、先の一件で思い出した記憶を踏まえて状況を整理すべきだろう。
まず最初に俺は、例の機械迷路が出口である、施設周囲の壁を超えることができる、という記憶を頼りに脱出計画を立て、消去法的に後者を選んだのだ。そして結果的にそれは叶わず、その道中で思い出した解毒剤についても入手に失敗した。
大まかにに状況を見れば、これは前回の俺の脱走を経てこの施設の警備が強化されたと考えることができる。
しかし本当にそうだろうか。断片的な記憶だが、少なくとも前回は施設周辺にあのような不可視の網が設置されていたことはなかった。つまり、前回俺が解毒剤の回収に成功したと仮定すれば、その後は施設から離れることもできたはずなのだ。
そのまま遠くに走り続け、いつかは俗世に帰ることができたはずなのだ。にもかかわらず俺はこうして再びここにいる。単純に解毒剤の入手に失敗したという可能性もあるが、その線は薄い。なぜなら、機械迷路の先に解毒剤があることを「知って」いるからだ。
機械迷路の先にある解毒剤、それは俺が前回奪取に成功し置いてきたものだ、とは考えられないだろうか。俺は前回解毒剤の奪取に成功した、しかしそのまま脱走せずにこの施設内に戻った、そうは考えられないだろうか。
この推測は俺にとってとてもしっくりくる。しかし同時に、出したくなかった結論でもある。この推論が正しければ、この施設だけではなく周辺地域、延いては今居るこの世界を否定することになるのだから。