戦場に舞う弾丸
株式市場が大きな転換を向かえたのは、ウクライナの軍事施設が攻撃を受けたというニュースが流れたときだった。戦争が始まったのだ。株価は一気に暴落した。
日本のテレビ番組でも連日戦争についてのニュースでもちきりだった。SNSでもロシアを非難する声やウクライナに同情する声、人が死んでいくことに哀しむ声など、とにかくいろいろな声で溢れていた。
開戦が宣言されて少しすると、死体が道端に転がっている映像や街にミサイルが落ちる映像など、現代ならではの鮮明な映像で戦争の現状が伝えられると、SNSの声はさらに大きくなった。それに伴ってか、株価は年初来安値を更新し続けた。
戦争が始まってからはほとんどニュースやSNSを見ることはなくなった。現状を把握するために最低限見るようにしていたがどうにも耐えられなかった。今まで笑って過ごしてきた奴らがここぞとばかりに悲しみを世界に発信していることへの戸惑いなのか、その掌返しの現実に圧倒されたのか、とにかく戦争によって人が死んでいく現実から目を背けたくて仕方がなかった。
「なにも、何も知らなかったくせに。今まで一言も声を上げなかったくせに」そう呟いてみても胸の内で蠢く焦燥が消えることはなかった。知らないことは罪ではない。無知であることは恥ずべきことであっても、知っていて無視をする奸悪者よりずっといい。
買戻しの注文を緑の波に向かってぶつけた。小出しにして確実に大きな利益を狙うのではなく、一気にすべての買戻し注文を約定させた。せめてもの反抗だった。私が買い戻した分だけ株価は大きく上昇したが一秒も経たないうちに元の株価まで戻された。私の全資金を賭けた意見なんてその程度の価値だった。
恐る恐る実現損益を確認すると、表示の色は真っ赤に染まり、過去最大の利益であることを示していた。私はこの赤色の中に屍を見た。そうか、私は戦争をすることに賭けたのだ。自分が利益を得るためには人が大勢死ぬ必要があった。この未来を望んで賭けたのではないか。
戦争が始まって人が死に、原油先物の価格が上昇して、インフレが進んで物価が上昇する。アメリカの貧困層はインフレによって殺されると言うアナウンサーまで出てきた。私にはこの未来が見えていたはずなのに、何もせず、いいや、何もしなかったならこんな気持ちになっていなかっただろう。
戦争によって世界経済が停滞し、人々の生活が少しだけ貧しくなることを知っていて、自分だけは多額の利益を得た。声を上げなかったのは私だ。たった一人が戦争を望んだところで、もしくは平和な未来を望んだところで現実は何も変わらなかっただろう。何せ私の意見は一秒間株価を上昇させる程度の価値しかないのだから。
それでも、日経平均株価に空売りをしたということは、戦争によって引き起こされるすべての不幸を望んだことに変わりはない。人が死んで利益を得た事実が変わることはない。
戦争が始まることを予測して、現実世界と未来の株価との乖離を利益として得ただけじゃないか、といくら自分に言い聞かせてみても、実現損益の赤色の数字が道端で転がっていた屍を思い出させる。
自分の利益は誰かの損失によって賄われている、空売りによって放たれた弾丸が戦場の空に漂っていて、私の利益は誰かの命によって補填されている。需給やテクニカル分析によって空売りをしたわけではない。私の空売りは人の命を標的にした戦場の弾丸そのものだったのだ。
株式市場では赤と緑の明滅を一層激しくさせ、戦争が始まった世界に徐々に歩み寄っていく。その動きは冷徹に、そして無機質に、私の中の焦燥も一秒だけ取り込んで、ありのままの現実を捉えようと激しく明滅を繰り返す。
命の灯りが赤と緑の明滅に思えてきて、私のちっぽけな資金じゃどうすることもできなくて、そっとパソコンの電源を落とした。
それから一か月間私は株式の世界から遠ざかった。