何も知らなかったくせに
二〇二二年二月。ロシアがウクライナとの国境付近に軍隊を集結させ、いつでも軍事侵攻が出来る状態を維持していた。株式市場では戦争が起こるか起こらないのかの二択に全関心が寄せられており、ロシア軍の動きが報道されるたび株価は反応した。
株式市場が戦争を織り込みだしたのは実際に戦争が始まる二、三週間前あたりからで、アメリカの利上げ観測上昇も相まって株価はじりじりと下げていたが、本格的な戦争を織り込んだ株価ではないようだった。
「きっと戦争は起きないが最悪の可能性はゼロじゃない。投資家として最低限のリスクヘッジはしなければならない」こんな声が聞こえてきそうな相場だった。
私はいつものようにデイトレードを行っていたが、いつニュースが入るかわからない状況下では必要以上のポジションを取ることは出来ず、今月の成績はあまり揮っていなかった。
戦争が始まる一週間ぐらい前だっただろうか、ウクライナがサイバー攻撃を受けたというニュースが流れた。勿論表向きはロシアからの攻撃とはされていなかったが、ロシアからの攻撃だったことは明確だった。以前からロシア、ウクライナに関するニュースは報道されていたが、この頃から戦争に関連したニュースが増えてきた。それでも実際に戦争が起こると思っていた日本人は一割もいなかったと思う。それどころかこの現状を知っている人の方が少なかっただろう。
このニュースを受けても株式市場は若干下落した程度で戦争を織り込んだ株価ではなかった。ロシアが以前起こした戦争を見るに、今回も戦争を始めるならばサイバー攻撃からだろうと頭の片隅でうっすらと予測していたが、まさかこの予測が現実として起こるとは思いもしなかった。この時代に大国が戦争を起こすことなんてさすがにない。平和ボケした固定観念に亀裂が入る音がした。
――ああ、戦争が始まるんだな、とこのとき確信した。
私は日経平均株価に連動する上場投資信託を資金の全てを使って空売りをした。売りの注文が約定するのと同時に株価はぐんぐんと上昇していったが、資金が尽きるまで売り続けた。需給は全く関係ない。ただ近い将来、必ず現実世界と株式の世界に大きな乖離が生まれる。戦争が始まることに賭けたのだ。
戦争が始まる三日前。ロシア軍撤退のニュースが流れた。今思えばどこからの情報だったのかもわからないが、株価は大きく上昇し、空売りをしていた私の評価損益はみるみるうちにマイナスの数字が膨れていった。ただ、このロシア軍撤退のニュースにアメリカだけはそのような状況は衛星写真からも確認できていないと言い続けていた。
間違った世界に向けて株価が動き出している気がした。もしくは戦争のない世界を願う人々の祈りの気持ちが株価を動かしていたのかもしれない。
嫌な胸騒ぎがしていた。焦燥といえばいいのか、何か不吉な塊が私の中で蠢いているのを感じる。手の届かないところで重要な何かが大きく変わってしまうのに、誰もそのことに気が付かないないで平然と笑って過ごしている。知って欲しいと願っても、知ったところで何も変わらない。どうすることもできないけれど、笑ってこの日常を過ごすことは自分にはできない。何もできずに時間だけが過ぎていくことに焦る。