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猛勉強

 必死に頭を回転させてもわたしの記憶から文字が出てくることはない。もう考えても仕方ないことは分かっているのに、「書けません」の一言が出てこない。


「どうされましたか? ミリアディーナ嬢。手が止まっておられますよ」

「ごめんなさい、ベリオレッツィ先生。あの、わたくし、字が……書けないんです」


 ベリオレッツィは「まさか」と笑ったけれど、紛れもない残念な事実だ。


「問題を変えましょうか。答えが分からないのでしょう?」

「いえ、答えは分かってますけど、文字が書けません」


 真剣な顔でベリオレッツィを見つめる。すると、笑い話ではないと理解したベリオレッツィが「本当ですか?」とわたしに尋ねた。コクリと頷いて返すと、彼は血の気が引いたようにスっと真顔になった。


「……そこの召使いとシャルエット、扉を閉めて外に出てくれ。誰も入れるな」

「お待ちください。お嬢様をお一人にする訳にはいきません」


 ベリオレッツィがいくら頼んでもシャルエットは譲らなかった。子供とはいえ異性と二人きりはいけないし、召使いを付けないのは淑女としてまずいらしい。


 ……貴族の娘って大変だね。


「仕方ない。シャルエットだけなら残っても構わないことにしよう。これ以上の譲歩は出来んからな」

「ご配慮、痛み入ります」


 召使いは何故かホッとしたように肩の力を抜き、急ぎ足で部屋を出ていった。胃の辺りを抑えていた気がしたのは気のせいだろうか。シャルエットが扉を閉めると、ベリオレッツィは声を潜めた。


「ミリアディーナ嬢、嘘ではありませんね?」

「はい、こんな恥ずかしい嘘を付く人がいますか?」


 ベリオレッツィは呆れた顔をして「いないな」と呟きながら首を振った。


「書けはしないが読めるということは?」

「実は昨日、読めないし書けないことに気が付いたんです」

「ああ、それで私に白羽の矢が立ったと。なるほど。……算術の方が得意ということですか?」

「うーん。算術は数字を知らないので出来るかどうか分かりません」


 わたしの目をしっかりと捕らえていたベリオレッツィの紫の瞳は、今は少し上の方を見ている。どうやら現実逃避を始めているようだ。逃避したくなる気持ちはよく分かる。


「はあ、これまでに家庭教師はいなかったのですか?」

「いたはずです」

「はず、とは?」


 ……あ、間違えた。いたはずじゃなくていたんだよ、一応は。わたしが逃げ出してたせいでほとんど会わなかったから毎回来てたのかは知らないけど。


 正直に勉強大嫌いで何もしてきませんでした、と言えば済む話である。ただ、無駄なプライドが邪魔してくるのだ。どう説明するべきかと悩んでいると、シャルエットが助け舟を出してくれた。


「お嬢様はつい先日事故に遭われたばかりです。頭を打たれたので、その後遺症の可能性は否めません。ポーションの副作用で記憶が曖昧になることもあると聞きました」


 確かにそうだ。間違いではない。間違いではないのだから、これが真実と言っても過言ではないのではないだろうか。わたしが勉強嫌いだったことを知るシャルエットが言っているのだから、これはわざと誤魔化す為に言ってくれたのだろう。きっとそうだ。


 ……わたしが不真面目だったんじゃなくて事故のせい。うんうん。


「そうなんです。シャルエットの言う通り、事故の後から記憶が混乱しているのです」

「……なるほど。それは大変だな。ならば一から、基礎からお教えしましょう。ミリアディーナ嬢はまだ七歳ですから、頑張れば巻き返せます」

「よろしくお願いします、ベリオレッツィ先生」


 それから、わたしの猛勉強が始まった。昼食の時間までは休憩を挟まずに基本文字と数字の練習。昼食を摂り終えて再開後は夕食まで休憩無しで計算の練習をする予定だ。初日にしては随分と厳しいスケジュールだが、今後を考えると今日中にやっておいた方が良いらしい。


 ……猛勉強と言えば、ゲームを買ってもらう為に死ぬ気で勉強したことあったよね。今回は報酬が無いのが寂しいけど、自分の為だし、頑張らなきゃ。ファイト、オー!


「ミリアディーナ嬢、これが基本文字の表です。繰り返し書き写して覚えてください」


 ペンを取り、早速練習を始める。ちなみに、わたし達が使っている言語は大陸共通語だそうだ。ウェルスツェーラムが属する大陸では、余程閉鎖的な土地へ行かない限り言葉が通じるらしい。


「共通語なんて便利ですね」

「そうですね。言葉の壁は厚い。大陸全土で共通語を話すように取り決めた当時の国王達は偉大だと思います。ただ、共通語を定めたことで失われた物も少なくはありません」

「本、とかですかね?」

「当たりです。他にも……ってミリアディーナ嬢の手が止まってはいけませんね。これはまたの機会に話すとしましょう」


 わたしは昼食の時間だと声をかけられるまでひたすら手を動かした。繰り返しを意識し過ぎたせいでゲシュタルト崩壊しかけている。しかし、なんとか基本文字と数字は覚えることが出来た。書くのはまだ怪しい時があるが、読む方はバッチシだ。


 ……ふふん。読み書き出来ちゃうんだね、わたし。こんなに早く覚えちゃうなんて、もしや天才?


 昼食後は算術に取り掛かる。結果から言えば、数字さえ分かれば算術はお手の物だった。一般人が成人までに習うのは四則演算のみらしく、前世の知識があるわたしからすれば難しいものではない。速さと正答率が素晴らしい、とベリオレッツィに褒められてホクホクだ。


 ……それにしても、ベリオレッツィ先生すごい。わたしの苦手な部分を的確に見抜いてる。


 わたしが間違えた問題だけではなく、迷って解いた問題もチェックして集計し、その結果を元に新たな問題を作っているようだ。わたしは現在、苦手な分野の集中砲火を食らっている。


 ……これは大人でも難しい、とか言っておきながら平然と生徒初日の人に解けと言ってくる辺り怖すぎるよ!


 どうやらベリオレッツィの中でしごきがいのある奴認定されてしまったらしく、どんどん問題の難易度が上がってきていた。だが、難しくても前世の中学一年生で習う内容だ。それなりに考えれば解けてしまう。前世の知識が通用しない他の教科はどの程度解けるのか未知数だ。算術でここまで出来てしまうと後が怖い。


 ……どうか他も簡単でありますように!




「今日はこれで終わりだ」

「はぁ、疲れました」


 勉強をしている内にすっかり打ち解けて、ベリオレッツィはわたしに敬語を使わなくなった。


 ……こっちの方がベリオレッツィ先生には似合ってる。召使い達はガチガチの敬語しか使わないし、砕けた雰囲気ってなんか新鮮。


「ベリオレッツィ先生、今日は基本文字と文法と算術をやりましたけど、あとは何をやるんですか?」

「ああ。あとは……まぁ、歴史とかだな」


 ……歴史かあ。この世界の歴史、想像つかない。


 神殿があるなら創世神話や建国神話はありそうだが、歴代王やら神の名前がたくさん出てきて混乱する未来が見える。

 ベリオレッツィが手帳のような物を(めく)りながら「ここまで進むとは思わなかったな」と呟いた。


「もしかして、一日で巻き返しました? ……まさかですけどね」

「いや、巻き返すどころか随分と先の内容まで進んだぞ。ミリアディーナ嬢が文字を書けないと言った時はどうなることかと思ったが、大変優秀で助かった」

「わたしもどうなることかと思いましたけど、なんとかなりそうで良かったです」


 ……こんなに問題を解くなんて数日前のわたしは思ってなかったね。


 前世の知識が役立ったのはもちろん、ベリオレッツィの教え方も上手かった。手配してくれたシャルエットにも感謝だ。

 ベリオレッツィはページを捲る手を止めて頬杖をついた。


「影武者候補でなければ学者にでもなれたかもな。少なくとも城の財務管理ぐらいは任せられる能力がある」

「あはは、そうですか?」


 ……煽てても何も出ませんよ。って、ん? 今、ベリオレッツィ先生『影武者候補』って言わなかった?


 ベリオレッツィの顔を見る為にゆっくりと視線を上げる。彼の目を見た途端、背筋がゾクッとした。


「……あのやぶ医者だ」

「どうした? 私の顔に何か付いてるか?」


 一瞬、ベリオレッツィがあの医者と重なって見えた。気品を感じさせる紫色の瞳。そして、目を細めた時の怪しい雰囲気。わたしに一等品のポーションを飲ませ、『影武者候補』という言葉を残して去ったあの医者によく似ている。


「ベリオレッツィ先生、目の色は親から継ぐものですか?」

「随分と急な質問だな。ミリアディーナ嬢の言う通り、大体はそうだ。親や祖父母から継ぐ。極稀に親族の誰にも似ない例もあるが、母親の不貞を疑われて母子共々家から追い出されるのがオチだな」


 ベリオレッツィは苦笑し、また手帳に目を移した。その法則に則ればベリオレッツィと医者に何かしらの血縁関係があると考えられる。


 ……気になったら聞いてみるのが一番だよね?


「その紫色の瞳は誰から受け継がれたんですか?」

「母上からだ。叔父上も同じ色をしているぞ」

「似たような色の目をした人を知っています」


 わたしは目立たないように深呼吸をしてからベリオレッツィに尋ねた。「先生の叔父様は医者ですか?」と。もし血縁であればお父様への報告案件だ。


「ああ。叔父上は国王陛下の主治医をなさっている方だ。会ったことがあるのか?」


 わたしは口では答えずに笑みを深める事で留めた。ベリオレッツィもわたしを影武者にする為に動いている一人だと考えるのが順当だ。


 ……でも、ちょっと待って。本当にそうだとしたら、ベリオレッツィ先生を手配したシャルエットも……?


 シャルエットを疑うことはしたくない。だが、こんな偶然があるのだろうか。手配した家庭教師が王の手の者だなんて仕組んだとしか思えない。

 借りを作って従わせるのが王のやり方なのだとしたら、わたしは命を救われ、学を与えられ、日常生活の世話をされ、既に特大の借りを作ってしまっている。頭を抱えたくなるような周到さだ。


「そうだ、一つ言うのを忘れていた」

「……なんでしょう?」

「私は本日から住み込みで家庭教師として勤めることになっている。ミリアディーナ嬢の能力を考えると教えるのは週二回で十分だな。庭の端にある小屋を研究室として借りているので、用があればそちらまで来てくれ」

「か、かしこまりました」


 なるべく取り繕って笑顔で頷いた。住み込みとなれば監視の役割も担っているのだろう。隙を見せたらあっという間に取り込まれてしまいそうだ。


「それと、楽師が派遣されると聞いている。音楽と礼儀作法を教えるそうだ。宮廷楽士の娘らしいぞ。頑張れよ」


 お父様は本当に許可を出しているのだろうか、と心配になるほど王の手が回っている。


 ……わたしに逃げ場は残ってないの!?

ウェルスツェーラムの学習基準は低く、実用的な事のみを勉強します。ミリアディーナは前世の知識のおかげで困ることなく算術をマスターし、読み書きも出来るようになりました。一気に成長です。


次回はミリアディーナがついに神殿へ行きます。

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