母の手紙とわたしの学力
自分の体温で暖かくなったフカフカの布団に挟まれてとても心地が良い。前世で使っていたぺったんこの煎餅布団とは大違いだ。ウチがお金持ちの貴族であることは、こういう所で実感する。
うーん、と背伸びをして体を起こすと、寝台のカーテンの隙間からオレンジ色に染まった空が目に入った。カラスのような黒い鳥、いや、胴は黒いけれど首から上は白い鳥がバサバサと羽音を立てて飛んでいる。
お父様と話している時はまだ水色の空だったので、わたしが眠ってから一時間くらいは経ったのだろう。人一人分の記憶が突然増えたのだから、幼い体にとって負担が大きいのかもしれない。短い睡眠だったが、体がすっきりしている。
……うーん、もう一眠りしたい! でも、夕食の時間かな。
ゴロンと寝返りをうって靴が置いてある方のカーテンを捲ると、シャルエットがドアの前で立ち話をしているのが見えた。わたしが寝ていると思って声のボリュームを抑えているようだが、年配の女性の声が聞こえる。その女性の姿は見えないけれど、シャルエットの態度がなんとなく親しげだ。
「お休みになっているならば起こさずとも良いのですよ。お怪我はないとはいえ、昨日事故に遭われたばかりでしょう?」
「けれど、お嬢様は……」
こちらに視線を向けたシャルエットと目が合う。シャルエットはわたしが起きているとは思わなかったようで驚いた顔をした。
「お嬢様、起こしてしまいましたでしょうか?」
「ううん、今起きたところよ。……あ、話しの邪魔しちゃった? わ、わたくしのことは構わなくて大丈夫だからね!」
「邪魔など滅相もございません」
シャルエットが廊下の方へ向かって会釈すると、お仕着せを着たふくよかなおばさんが部屋に入ってきた。お仕着せはロゼシアント家のものだが、初めて見る顔だ。シャルエットは手で指しながらおばさんを紹介する。
「こちらは奥様にお仕えする召使いのワドルベーヌです」
……お母様の?
ワドルベーヌがくすんだ青色の瞳を細め、クシャッと目尻に皺を作って微笑んだ。孫を見るような暖かい目でわたしを見つめている。
「お久しゅうございます、ミリアお嬢様。わたくしが見ないうちに随分と大きくなられましたね。月日が経つのは早いものです」
「え? ええ、会えて嬉しいわ」
……ありゃ、会ったことある人だったよ。
ミリアお嬢様、とわたしを愛称で呼ぶのは、母エリフィアーナの側近の中でもわたしのお世話をしていた者達だけだったと思う。きっと、ワドルベーヌもその中の一人なのだろう。わたしの記憶からサッパリ消えているだけで。
……今日みたいにお母様の召使いが訪ねて来ることも半年に一度あるかないかだし、忘れていても仕方ないよね。うんうん。
「それで、ワドルベーヌ、今日はどうしたのかしら?」
「エリフィアーナ様からお手紙を預かっております」
「手紙?」
お母様が手紙を寄越すなんて初めてのことだ。いつものように一言二言の言伝かと思っていたので、少しこそばゆい。
ワドルベーヌはシャルエットに手紙を渡すと、「わたくしはこれで失礼致しますね」と軽く頭を下げて部屋を出ていこうとした。
「ワドルベーヌ、待って」
「……どうされましたか? ミリアお嬢様」
「届けてくれてありがとう。またいつでも来てちょうだいね」
ワドルベーヌは「ええ、きっと」と顔を綻ばせて部屋を出ていった。お母様のことを尋ねれば良かったと気づいた頃にはもう遅く、足音すら聞こえなくなっていた。
「お嬢様、こちらです」
「……あれ? ええと、このまま渡されたの?」
「はい。何かございましたか?」
シャルエットが差し出した手紙を見て、わたしは首を傾げた。ワドルベーヌが持ってきたお母様の手紙は、封筒に入っているわけでもなく、模様も色もない紙がただ半分に折られた簡素ものだったのだ。家族宛とはいえ、あまりにも華がない。せめて封筒に入れて欲しかった、と少し残念に思いながら手紙を開く。
「……お母様、すごい」
目に入ったずらりと並ぶ文字に、わたしは思わず息を呑んだ。
紙に罫線が無いにも関わらず、文字の並びに一切の歪みがない。英語の筆記体を見た時のような、何と書いてあるかは理解できないけれど見惚れてしまう美しさを感じる。覗き込んだシャルエットも「素晴らしい……」と目を丸くした。
「奥様が流麗な字を書かれるとは聞き及んでおりましたが、実に見事ですね。かつて、文官に代わって要人宛の書簡を任されたというのも納得です」
「要人って? どこかの領主とか?」
「いえ、隣国の国王へ向けたものだったかと存じます」
……お母様、マジすごい。全然知らなかったよ。
わたしがお母様と過ごしていたのは四歳になる少し前までで、その後はめっきり顔を合わせていない。物心が付いて間もなくいなくなってしまったからか、思い出そうとしても顔も性格もピンと来ない。まだ前世の母親の方が思い出せるくらいだ。
「……元気かな」
……お母さんも、お母様も。
シャルエットが「きっと、お元気ですよ」と、わたしの髪に触れてそっと撫で付けた。多分、寝癖のついた髪を直してくれているだけだろう。けれど、撫でられる度に胸のあたりがじんわりと温かくなっていく。
「ワドルベーヌから、ミリアディーナお嬢様は寂しい時間を過ごされていると伺いました。旦那様が屋敷にいらっしゃるお時間は短く、奥様やお坊ちゃま方はご不在。お一人の時間が多いのだと。お嬢様は本当ならまだ甘えたいお年頃のはずです。ご家族との交流を持ち、得るものがあったはずなのです」
シャルエットが何を言いたいのかが分からず、戸惑いながらゆっくりと相槌を打つ。ほとんどの時間を一人で過ごしてきたのは事実だが、前世を思い出すまで『家族』とはこういうものだと思って生きてきた。
……わたし、別に家族が家にいないからどうこうとは思わないよ。思ってない……よね?
ふと、シャルエットが手の動きが止まったと思ったら、「無理をせずとも良いのです」と頬をつつかれた。びっくりしていつの間にか下がっていた顔を上げると、シャルエットはいつものようにぎこちなく、優しく微笑んでいた。
「奥様の代わりにはなれませんが、わたくしだって少しは甘やかせますよ」
その言葉を聞いた途端、急に目元が熱くなってしまった。この感情は気のせいだ、とキツく目を擦っても、胸の奥のチクッとする痛みは消えてくれない。情けない。情けないけれど、今だけは甘えたい気分だ。
「ありがとう、シャルエット。じゃあ、早速甘やかしてもらおうかな」
「ええ、喜んで」
わたしはシャルエットに手紙の代読をお願いした。実は、お母様の手紙には難しい言葉が多く、わたしには読めそうにないのだ。パッと見た感じでは、手紙に何と書いてあるのかさっぱり分からなかった。シャルエットは快く引き受けてくれたけれど、ちょっぴり恥ずかしい。
……ああ、ちゃんと勉強しなきゃだね。手紙くらいは読めるようにならなくちゃ、大人になってから絶対困るよ。
シャルエットがすらすらと声に出して読んでいくのを静かに聞いた。大半何を言っているのか理解出来なかったが、格式ばったお見舞いの言葉が長々と綴られているのはシャルエットの解説でなんとなく分かった。
ただ、最後の一文に添えられた「貴女の声が聞こえる事を楽しみにしています」という言葉は、シャルエットでも意味が掴めないらしい。婉曲な言い回しとやらは難しいものだ。
「読んでくれてありがとう」
「いえ、お役に立てたようで何よりです。こちらの手紙はどういたしますか?」
「うーん。じゃあここに入れておきましょう」
繊細な花の彫刻が美しいベッドサイドテーブルの一番上の引き出しを指す。卓上に水色のシェードランプと召使いを呼ぶ為のベルが置いてあるくらいで、三段ある引き出しの中は空っぽだったはずだ。
特別お母様のことが恋しいわけではないけれど、『母親』の存在を感じる唯一の物を傍に置いておきたい。
「かしこまりました。引き出しに入る大きさの文箱をご用意させて頂きます」
「よろしくね」
シャルエットは手紙を、直に入れるのは気が引ける、とポケットから取り出した純白のハンカチに包んで引き出しに入れた。
夕食の準備が出来ているかどうかの確認に行こうとしたシャルエットを呼び止める。先程気づいてしまった大変な案件について、覚悟を決めて話しておこうと思ったのだ。シャルエットなら笑わないで聞いてくれると信じたい。
「ねえ、シャルエット。ちょっと聞いてくれる?」
「どうされましたか?」
「……実はね、わたくし、少し前まで勉強が大嫌いで、家庭教師の先生の話をろくに聞いてなかったの。手紙すら一人で読めないのは悔しいし、これからきちんと勉強しようと思う」
シャルエットがピタリと固まった。何を言っているのですか、という困惑の色が顔から滲み出ている。
「……わたくしはお仕えしたばかりで、お嬢様がこれまでどう過ごされてきたのかをほとんど存じません。お嬢様はどの程度、お勉強なさっていたのですか?」
前任の召使いとの引き続きがなかったようで、少し前までの我儘で怠惰なわたしを全く知らないらしい。だから抵抗もなく接してくれたのか、と納得する。
「基本文字は読める……かな? さっきの手紙は全く読めなかったけど」
わたしの顔を見てシャルエットは数回瞬きをすると、頬に手を当てて少し首を傾げた。
「もしや、そのことを旦那様はご存じないのではございませんか?」
「……うん。お父様は知らないと思う」
わたしはお父様や客人の前ではいい子ぶっていたし、年若い家庭教師は働かなくても金が入ると喜んでいた節がある。お父様にわたしがサボっているという報告がされていたとは思えない。第一、跡継ぎの立場ではないわたしは、努力する必要性を感じていなかった。
このことを軽く説明すると、シャルエットは視線を遥か遠くに向けて、またピタリと固まった。現実を見ないようにしているのか、少し上を向いている。
「明日からでも家庭教師を呼びましょう。旦那様には話を通しておきます。……まさか、文字を教わっていないとは思いませんでした」
……分かるよ。まさかだよね。わたしも自分でびっくりしたもん。
前世の記憶が戻っていなければ、わたしはこのまま読み書きを覚えずに一生を過ごそうと考えただろう。しかし、ウェルスツェーラムは識字率が高い国だとお父様は言っていた。平民ですら出来るのに、と嘲笑されて呆れられるのも、困って後悔するのもわたしなのだ。七歳というまだ取り返しのつく年齢で気付けたのは幸いだと言える。
夕食を食べて部屋に戻ると、シャルエットから明日より優秀な家庭教師が教えに来ることが決まったと伝えられた。わたしが夕食を食べている間にお父様への報告と教師の手配を済ませたらしい。シャルエットの妙々たる手腕には賞賛の拍手を送りたいが、含みのある『優秀』という言葉には些か不安を覚える。
……へ、変な人とか来ないよね? まあ、家庭教師が変人だったとしても、これまでやってこなかった分、気合いを入れて頑張らなくちゃね!
ふんっ、と意気込み、大きくガッツポーズをする。シャルエットが怪訝そうな目で見つめているのは気にしないことにした。
◆
フクロウに似た、ホーホーという穏やかな鳴き声が静けさの中に響く時間帯、わたしは中々寝付けずにいた。夕方に少し寝たのがいけなかったのか、目を閉じてもすぐに開けてしまう。
寝台のカーテンの隙間から差し込むほのかな月明かりを見て、ふいに外を眺めたくなった。裸足のままで窓際へ向かい、窓枠を押して開けると、ちょっぴり肌寒い風が頬をかすめた。
……ううっ、夜は寒いね。でも、すごく綺麗な空。
少し欠けた月が煌々と輝き、周りの星々は競い合うように光っている。無駄な灯りがないからこそ見れる光景だ。
……お母さん、夜空を眺めるのが好きだったんだよね。お父さんに会えるからって。わたしまで死んじゃって、お母さん悲しんでるかな。
前世で死んでから、どのくらい経って転生したのかは分からない。でも、さようならもありがとうも言えずに死んでしまった事が少し、心残りだ。
窓を閉めたことを確認して寝台へ戻る。ふぅ、と息を吐き、布団を深く被って目を閉じた。
……良い夢が見れると良いな。
◆
背伸びをしながら上半身を起こす。いつも召使いに揺さぶられてやっと起きるわたしにしては珍しく目覚めの良い朝だ。もう少し寝ていたいとも思わない。生まれて初めての感覚である。
のそのそと寝台から出て部屋の中を見渡すも、シャルエットの姿は見当たらない。となると、わたしが普段の起床時間よりも早くに起きてしまったのかもしれない。
……あの激マズポーションのおかげなのかな。質に全振りしてるのはどうかと思うけど。
せっかく早起きしたのに布団の上でゴロンゴロンするだけでは勿体ない。悩んだ末に、ラジオ体操をすることにした。もちろん音源はないのでわたしの鼻歌だ。うろ覚えだったせいでショートバージョンになってしまったが、良い時間潰しにはなった。三週目の途中で入ってきたシャルエットに「不思議な踊りですね」と苦笑いされたのは見なかったことにする。
ミリアディーナは行方知らずの母エリフィアーナからの手紙を受け取ります。そこで発覚した自身の圧倒的勉強不足。勉学に励むことを決意しました。
次話は、優秀な家庭教師がやって来ます。




