わたし達の関係に未来はない
微睡の中、衣擦れの音に目を開ける。
空は未だ暗く、太陽は地平線の向こう側。鳥さえも目覚めていない時刻だ。
「もう行くの?」
「……ああ」
けれど、これがわたしの日常。
だって、今起きなければ――――これが最後になってしまうかもしれない。もう二度と会えないかもしれないんだもの。
「ごめん。本当はもっとゆっくりして行きたいんだけど」
困ったような微笑み。頭を優しく撫でられ、わたしは苦笑を浮かべる。
「分かっているから。気にしないで」
彼は未来のある貴族の令息。醜聞は避けなければならない。未亡人のわたしとは、根本的に違っているのだから。
「サロメ」
名前を呼ばれ、心臓が疼く。甘い口づけに酔いしれながら、目頭の熱を逃す。気を抜けば涙が零れ落ちてしまいそうだった。
「また来るよ」
「うん……待ってるわ、セオドア」
精一杯の微笑みを浮かべ、わたしはセオドアの後姿を見送った。
***
「信じられない。あなた、未だにこの家に居座るつもりなの?」
耳を塞ぎたくなるような金切声。不服気に顔を顰めた妹の姿に、わたしはそっとため息を吐く。
十八歳の時、わたしは五十歳も年上の資産家子爵に嫁いだ。
わたしのことを嫌っている義母と妹が纏めた政略結婚。わたしの意思が通る余地など全くなかった。幸い、夫はとても優しく、穏やかな良い人だったのだけど。
「子爵様は二年も前に亡くなったっていうのに……随分と面の皮が厚いのねぇ」
蔑むような言葉。良心がチクリと疼く。
わたし達夫婦の間に子は居ない。
本来なら、夫が亡くなった時点でわたしは実家に戻るべきだった。
けれど、義母と妹がそれを許さない。行き場を無くしたわたしが市井に降り、身売りをすることを期待していたらしい。
「口を挟んで申し訳ございませんが、それが旦那様の遺言でございます。何度もご説明を差し上げた筈ですが」
助け舟を出してくれたのは、この家に古くから仕えている執事頭のロバートだ。
彼の言う通り、夫はわたしを実家に帰すことも、市井に投げ出すことも許さなかった。
『可愛いサロメ――――私が亡き後も、彼女がこの家で何不自由なく過ごせるようにしてほしい』
屋敷の使用人たちは、主人の遺言をしっかりと守り、わたしをここに置いてくれている。
けれど、わたしはそれが申し訳なかった。
だって、わたし達夫婦の間には子どもが居ない。当然だ――――そういう行為をしていなかったのだもの。
『すまないね。私は亡き妻を愛しているから』
初めての夜、夫はそんなことを口にした。
正直言って、ホッとした――――と同時に、わたしはとてつもない罪悪感に襲われることになった。
わたしは夫に返せるものが何もない。
実家とは比べ物にならない程の贅沢な生活。夫も使用人たちも、皆がわたしに優しく、温かい。浪費家の義母や妹も、この結婚の恩恵に大いにあやかっている。
嬉しくて――――けれどあまりにも申し訳ない。
結婚からたったの二年。夫は病気のために亡くなってしまった。彼に何も返すことができないまま。
失意のまま訪れたとある夜会で、わたしは幼馴染のセオドアと再会した。
「久しぶりだな、サロメ」
名家の伯爵令息である彼は同い年。最後に会ったのはわたしの結婚式の時だったから、実に二年ぶりの再会だ。
「本当に久しぶりね。見違えてしまったわ」
夫を亡くしたばかりのわたしにとって、彼はあまりにも眩しかった。
華やかな夜会装束に身を包み、貴族達と微笑みを交わす。美しく、洗練された身のこなし。お荷物で、役立たず――――身の置き所を探しているわたしとは何もかもが違っている。
ううん。
本当はそれだけが理由じゃない。
わたしはずっと、セオドアのことが好きだった。
しっかり者で、快活で、温かくて。いつも優しい彼のことが、わたしは大好きだった。
「ご主人のことは残念だったね」
「ええ。本当に残念だわ」
夫婦としての愛情、恋愛感情はなくとも、夫は本当に素晴らしい人だった。こんなわたしに良くしてくれて、どれだけ感謝してもし足りない。
「ところで、サロメはどうして夜会に?」
「それは…………婚活しなきゃなぁと思って」
言えばセオドアは、僅かに目を丸くし息を呑んだ。
「婚活? どうして?」
「どうしてって……わたしの義母や妹の性格をセオドアは知ってるでしょう? 実家に帰ることはできないし、夫亡き後、身の置き所が無くて、それで」
「――――何か、子爵様の家を出ないといけない理由があるの?」
「いいえ。幾らでも居て良いって、そう遺言を残してくれているわ。だけど、それじゃ何だか申し訳ないでしょう? 他の誰かと結婚して、家を出た方が良いと思って」
何が悲しくて、わたしは好きな人にこんな説明をしているのだろう? 恥ずかしくて、とても惨めな気分だ。
気まずい沈黙。軽蔑、されてしまったのかもしれない。そう思うと、苦しくて堪らない。
「家まで送るよ」
どれぐらい経っただろう。セオドアはそう言うと、わたしの手を引いた。
馬車の中では、どちらも一言も喋らなかった。
月明かりに照らされたセオドアの横顔があまりにも綺麗で愛しい。縋りつきたい――――けれど、そんなことはできないって分かっていた。
未亡人のわたしを迎え入れてくれる人なんて一握り。相手にも離婚歴があるとか、訳ありだと相場が決まっている。
輝かしい未来の待つセオドアと、謂わば既に終わっているわたし。絶対に、結ばれることは無い。
「おやすみなさい」
さよならの代わりに、ありふれた挨拶を口にする。もう二度と、彼に会うことはないだろうと、そう思いながら。
けれど、彼から返って来たのは言葉ではなかった。
吐息ごと唇を塞がれ、心臓がドクンと大きく跳ねる。頬を、肩を、優しく撫でられ、息苦しさに目を瞑る。
一瞬だけ交わった視線。時間が止まったかのような感覚。セオドアに身体を預け、激しい口付けに酔いしれる。
この関係に未来が無いことは分かっている。わたし達の道は交わらない。
だけど、それでも――――
「サロメ――――今夜は一緒に居たい」
欲に塗れた囁き声。
自分に嘘を吐くことなんて出来なかった。
***
そうして始まったわたし達の関係。
彼は三日と開けず、わたしの元を訪れる。
だけど、いつだってそれは夜の帳の中。セオドアは、屋敷の皆が寝静まった頃にやって来て、明け方早くに帰っていく。
当然だ。
たとえ遊びであったとしても、醜聞は避けた方が良い。将来、結婚に響くかもしれないのだから。
「プレゼントを持って来たよ」
セオドアはよく宝石やドレス、花束を持参してくれた。
大粒のエメラルドに、繊細なレースが見事なドレス。まるで未婚の令嬢が身に着けるような華やかな品ばかりなのが玉に瑕。わたしには勿体ない逸品だ。
「ありがとう。これを着けて婚活を頑張らないとね」
おどけるように口にすれば、セオドアはムッとした表情を浮かべ、それからわたしの唇を塞ぐ。とても激しく、甘やかに。
「俺、サロメのそういう所、大嫌いだ」
言葉とは裏腹に、彼はわたしをキツく抱き締める。胸が甘く締め付けられて、瞳に涙が滲む。
「そう? わたしはセオドアが大好きよ」
そう言って微笑むと、セオドアは噛みつくようなキスをした。
彼の瞳と同じ色をしたエメラルドのネックレスが揺れる度、わたしは得も言われぬ気持ちになる。
彼のものになれたら良いのに――――。
それは叶わぬ願いだと分かっている。口にした瞬間、全てが終わってしまうだろう。
それでも、セオドアもわたしを求めてくれている気がしてしまって。
「もうすぐ、爵位を継ぐんだ」
だけど、終わりの日は着実に近付いていた。
「……良かったじゃない。おめでとう」
精一杯の強がり。満面の笑みを浮かべ、わたしはセオドアを見つめる。
爵位を継いだら、今みたいに軽々しくここを訪れることは出来なくなる。ううん――――真面目なセオドアのことだもの。もう二度と会えないに違いない。
(結婚、するんでしょう?)
そう尋ねたくて。けれど尋ねたくなくて。
幾度となく言葉を飲み込む。
もしも生まれる家が違っていたら――――夫と結婚しなかったら、わたしは欲しい未来を手にいれられたんだろうか? セオドアのお嫁さんになれたのだろうか?
過去は変えられない。欲しい未来は得られない。
分かっているけど、どうしても考えずにはいられない。
「ねえ、セオドア。本当にわたしのことが嫌いなの?」
終わるなら、綺麗に忘れさせて欲しい。どうしようもないことなんだって。思い知らせて欲しいのに。
「バカ、サロメ――――愛してる」
そんなことを言うのだもの。何年も堪えていた涙が、勢いよく流れ落ちた。
「好きだよ。幼い頃からずっと。俺にはサロメだけだ」
唇が涙を拭う。ひび割れた心を、セオドアの言葉が包み込む。
嬉しくて――――その分だけ悲しい。
「わたしも、セオドアが好き」
感情は揺らぎない。だから、簡単に口にすることが出来る。
けれど、そこに未来は無い。
セオドアが愛を紡ぐ度、わたし達には『今』しか無いんだって、思い知る。
叶えられないことは言わない。期待させちゃいけないから。
叶えて欲しいことも言わない。煩わしく思われて、最後になってしまうかもしれないから。
少なくとも、わたしが願いを口にすることは許されない。言えば、セオドアを苦しめてしまうもの。
「サロメ――――愛してる」
わたし達はただひたすらに、今を約束し、求めあう。
そんな日々が少しでも長く続けば良いと、そう思っていた。
***
いつものようにセオドアを見送り、永遠にも思える時間を一人で過ごす。空が白み、侍女達がようやくわたしを起こしにやって来る。
「サロメ様、本日のお召し物はこちらのドレスに致しましょう?」
従者たちは皆、セオドアのことを知っていて、知らぬふりをしてくれている。元の主人を裏切るようなわたしの行為に、目を瞑ってくれている。
皆のためにも、早く新しい結婚相手を見つけなければならない。
分かっているけど、セオドアと再会して、わたしは彼以外の人のことを考えられなくなってしまった。罪悪感や居心地の悪さは高まるばかり。自分でも本当にどうしようもない女だと思う。
「サロメ様、本日は午前中に来客の予定がございます」
「来客?」
もしかして、また妹が来るのだろうか? 嫌だな、と思っていたら、執事のロバートは首を横に振った。
「旦那様にとっても、サロメ様にとっても、大事なお客様です。心してお迎えください」
「…………分かったわ」
含みのある物言いに引っ掛かりを覚えつつも小さく頷く。
それから数時間後。
馬車の音を相図に、屋敷の入り口へと向かう。
今日のわたしの装いは、いつも以上に豪華だった。特別な時だけ身に着けるドレスにジュエリー、侍女達が美しく化粧を施し、髪を綺麗に結いあげてくれる。帝国一の美姫だ――――っていうのは明らかに言い過ぎだと思うけど、たくさん褒めて貰って、無理やりテンションを上げる。
余程大事なお客様なのだろう――――そう思っていたわたしは、扉が開くと同時に呆気にとられた。
「セオドア――――?」
目の前には、正装に身を包み、大きなバラの花束を手にしたセオドアが立っている。いつもよりもキッチリと撫でつけられた髪の毛。どこか緊張した面持ち。訳が分からなくて、わたしは彼を見上げることしかできない。
「君を迎えに来たんだ」
セオドアの言葉に目を見開く。
それは彼が決して口にしなかった未来を意味する言葉だった。花束を手渡し、跪く彼に涙が溢れ出す。
「サロメ――――どうか、俺と結婚してほしい」
真剣な眼差し。彼が本気なんだってことがよく分かる。
「だけどセオドア! わたしじゃあなたに相応しくないわ。これから伯爵になろうというあなたが、未亡人であるわたしを選ぶだなんて……」
「両親は既に納得している。君の父親にもきちんと話を通した。あとはサロメが頷いてくれるだけで良い」
喉が焼け付く様に熱い。
本当は今すぐに頷いてしまいたい。
だけど、本当にそれで良いのだろうか?
屋敷の皆はどう思う?
厄介払いができると思ってくれるなら良いけど、恩知らずだと腹を立てるのでは?
「サロメ様。セオドア様は、あなたが嫁いで来る何年も前から、こちらの屋敷を何度も訪れていらっしゃるのですよ?」
「……え?」
どういうこと? 首を傾げるわたしに、ロバートは優しく微笑んだ。
「サロメ様との婚約を破棄してほしい――――自分が彼女と結婚したいのだと、セオドア様は旦那様に仰っておりました。聞けば、サロメ様のお父様に何度も掛け合ったものの、相手をしてもらえなかったというではありませんか。
旦那様も、元々結婚に乗り気だったわけではございませんから、一度は彼の願いを叶えて差し上げるつもりだったのです。
けれど、あなたの義母様や妹様はああいったご性格。とてもセオドア様との結婚が許されるとは思えません。
【君自身がサロメを迎えに来れるその日まで、私が彼女を守ってあげよう】
それが、旦那様とセオドア様が交わした約束でした。そこから先もお二人は交流を重ね……旦那様にとってセオドア様は、ご自身の子のような、孫のような存在だったのです。
サロメ様、旦那様はあなたが幸せになることを願っています。それこそが旦那様の遺言。私共はそのために、今日まで貴方にお仕えしてきたのですから」
「――――そんな……」
そんなこと、ちっとも知らなかった。
義母や妹が夫とわたしを結婚させたのは、お金のためもあったけど、わたしを虐げたいがために他ならない。
年の離れた男との結婚。幸せになれる筈がないと踏んでいたのだろう。
もしも夫がわたしとの結婚を断っていたら、わたしは他の、もっと質の悪い男性の元に嫁がされていたに違いない。
だけど、一度嫁ぎ、実家を離れた今なら、二人の干渉を最小限に喰いとめることが出来る。あの二人にセオドアとの結婚を止めさせるような権限はない。
夫とセオドア。
二人の優しさと愛情に、わたしは今日まで守られてきたのだろう。
「それなのに、サロメが『婚活する』なんて言い出すから、色々と予定が狂った。本当はもっとゆっくりと――――俺が爵位を継ぐ日を待とうと思っていたから。だけど、万が一サロメが他の男と結婚が決まったら嫌で、それで……」
バツの悪そうに呟くセオドアに、唇が震える。
「だって……だって! わたしは旦那様に渡せるものが何も無かった! それなのに、亡くなって以降も居座って、皆に申し訳なくて! 早くここを出ていかなくちゃと思ってるのに、一人でやっていく自信もなくて!
それに、セオドアとは結婚できないと思っていたから」
「分かっているよ。サロメが俺の将来を大事に思ってくれていたこと。それに、万が一サロメとの関係を君の家族に嗅ぎつけられて邪魔されたくないから、朝まで一緒に居ることも出来なくて。そんな状況で『結婚しよう』って言っても、簡単には信じてもらえないだろうって思っていた。
だからこそ、きちんと外堀を埋めて、サロメが信じられる状況を作ってから、正式にプロポーズをしようと思っていたんだ」
大きな花束を抱えたわたしの左手を、セオドアは強く握りしめる。
彼の手には大きな宝石のあしらわれたエンゲージリング。こちらを真っ直ぐに見つめながら、わたしが頷くのを待っている。
「良いの? 本当に?」
幸せになっても良いの?
わたしは彼との未来を願っても良いのだろうか?
「尋ねているのは俺だよ、サロメ」
セオドアはわたしを抱き締めると、耳元で熱っぽく囁く。
「愛している。俺と結婚してほしい」
今と、未来を表す愛の言葉。涙が溢れ、嗚咽が漏れる。
こんな幸せ、想像したこともなかった。だけど、もしも許されるというのなら、わたしはそれを――――彼との未来を掴み取りたい。
「わたしも……セオドアのお嫁さんになりたかった。
ううん――――わたし、セオドアと結婚したい! セオドアとずっと、一緒に生きて行きたい」
ずっとずっと、言えずに呑み込んでいた言葉。セオドアは目を見開き、それから今にも泣きだしそうな表情で笑う。
「もちろん。絶対に、二人で叶えよう」
力強く微笑まれ、大きく頷く。
わたし達の関係には過去があり、今があり、未来がある。
幸せな気持ちを胸に、わたし達は口付けを交わすのだった。
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