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 フィリーネの暮らしは変わらなかった。

 何も変えないことで、アルトゥールと出会う前の自分に戻ろうとした。


 やがて夏が終わり、秋も去り、森の城は雪に覆われた。


 その冬、風邪をこじらせた肺炎がもとで老領主が亡くなった。


 夫を立派に看取った夫人は、三月の喪が明けると修道院へ行く準備を始めた。

 跡継ぎである甥に城に留まるよう強く慰留されながら、これを固辞した。邪魔にならぬよう去るのだと話したという。


 夫人が行こうとしているのは、僻地にある戒律の厳しい修道院だった。

 親のない子を庇護する孤児院を経営し、町では身寄りのない病人や老人を世話する活動をしている。

 夫人は自身の財産はそっくり寄付し、自身も修道女のひとりとして働くつもりだ。


 フィリーネは夫人に、自分もついて行かせてほしいと頼み込んだ。


「本当にいいの?」

 夫人は一度だけフィリーネにそう尋ねた。半端な覚悟でついていける場所ではないからだ。

 それに、父とアルトゥールとのことに心の整理をつけたのかということも心配してくれている。


 あれから一年が経った。

 たった一年前のことだが、もう何年も経ったような気がしている。


 このままアルトゥールとも父とも会わずに時が過ぎたら。新しい務めを見つけて、その使命に身を捧げるようになったら。

 悲しみや憎しみも、辛かった思い出も心の底に沈んで、雪に覆われるように見えなくなって、やがてそういう気持ちを本当に忘れられる気がした。


 そして、アルトゥールが騎士として立派に辺境を守れるよう、神に加護を祈れるようになるだろう。


「手紙を書こうと思います。……父にも、あの人にも」


 手紙の内容を考えながら、夫人と自分の身辺の整理をした。

 持ち物はもともと多くはなかったが、ほとんど修道院に持ち込むことは許されないので、周りの人に譲ったり処分したりした。


 片付けの途中で、フィリーネは雪解けの庭に出て、ベンチに腰掛けた。

 ただ一つ手放せそうにないものがあった。

 以前、アルトゥールと感想を語り合った詩集だ。

 手紙の代わりにこの詩集を彼に送ろうかと、フィリーネは考えていた。


 彼のことを思い出すと、胸にさざ波が立ったようになり、落ち着かない心地になった。

 手紙を書こうとペンをとっても、何も記すことができない。

 でも、何も言わずに旅立つことは不誠実な気がしていた。


 最後に彼に会ったとき、フィリーネは我を忘れ、自分の悲しみに溺れて、彼の叙任を祝う気持ちさえまだ伝えられていなかった。

 それどころか。


『騎士の身分を手放して、家族も捨てて、この国を出たってかまわない』

 父の償うという申し出には、ただ虚しさしか感じなかった。

 フィリーネは父に財産を譲らせるのでも、地位を手放させるのでもなく、ただ、十年前に戻りたかった。

 十年前、父に、母と自分を選んでほしかった。国を捨てても、地位や身分、富を擲っても、一緒にいてほしかった。


 父にこそ、アルトゥールと同じことを言ってほしかった。

 それだけだったのだ。


 ぼうっとしていると、子どもたちが中庭を連なって駆けてくるのが見えた。

 果樹園の方からやってきたらしく、みな林檎を手にしている。

 おやつにしようともらってきたのだろう。


 男の子がひとり、真っ赤な林檎を手にして近づいてきた。

「フィリーネ、林檎を分けてあげる」


 微笑んでフィリーネは答える。

「いいの? じゃあ、みんなのぶんも厨房で皮を剥いてあげましょうか」


 本を閉じて腰を上げたとき、足下にふわりと何かが舞い落ちた。

 白い紙片に貼り付けられた、古い押し花だった。雪の中に咲く金色の花。


 花の色は褪せても、受け取った瞬間の喜びは、瞬時に胸に蘇る。

 これをくれた人もちょうど、ぴかぴかの林檎のような頬をしていた。


 屈んで拾い上げようとしたとき、子どもたちが向こうでわあっと歓声を上げた。


「きれいなお馬!」


「どこから来たの?」


 栞を手に顔を上げた。視線の先に真っ白な馬がいる。


 馬の轡を取っていたのは、彼だった。


 この馬に乗って駆けてきたのだろう、金色の前髪が風に煽られて、秀でた額が露わになっている。

 その下の春の海のような目は、まっすぐにフィリーネを見つめていた。


「後ろに立つと危ないから気をつけて。でも、大人しい馬だから、撫でても怒らないよ」

 馬に駆けよる子どもたちに声をかけながら、アルトゥールはゆっくりと近づいてくる。


 フィリーネはそこから動けなかった。


「――どうしてここに? もう会わないと、父に伝えたはずよ」


 一年ぶりの彼は、いっそう精悍になったように見える。フィリーネと並んでも、もうどちらが年上かわからないだろう。

「……修道院に行くと聞きました。どうしても、ひとめ会いたかった」


 真剣なアルトゥールの様子に、何かを察したのか子どもたちが離れていく。鞠のように芝生の上を転げながら。


「あなたと最後に会った後、一度、都の実家に帰りました。僕が動揺していたのを見かねたマクロフ様が、休暇を取ることを勧めてくれたので。僕は、あなたのことを知っている者を探しました。探さずにいられなかった……」

 彼は一度俯いた。 


「母と再婚したとき、父の家の使用人はほとんど入れ替わっていましたが、あなたと母君のことを知っている者もいました。隠居した馬丁頭です。その老人が今も、一頭だけ、決して人には任せず世話をしている馬がいます」

 言いながら、馬の長く優美な首を優しく叩き、混じりけのない白いたてがみを撫でる。


 馬は嬉しげにアルトゥールの肩に鼻先をすり寄せ、黒い瞳を瞬かせた。

「あなたが幼い頃、名前をつけたと聞きました」


 目の前にあるのは、記憶の中にいる仔馬がそっくりそのまま成長した姿だ。

 小柄で脚も細いが、毛並みに艶があり、よく手入れされているように見える。

 売られず、放って置かれもせず、大切にされていたのだと一目でわかった。


「父に頼んで譲り受けました。今は僕の居館にいます」


 父がなぜこの馬を手元に残していたのかはわからない。

 感傷だったのか、あるいは、父なりの罪滅ぼしだったのか。


 わかったのは、立派な騎士であり、娘の自分からは途方もなく大きな存在に思えた父もまた、弱くて、迷ったり悩んだりもする、ひとりの人間だということだった。


「僕の母があなたと母君にしたことが、許されるとは思いません。母は先の結婚で、僕の父の愛妾から受けた仕打ちを許せず、あなたの母君を家から追った。あなたの父に自分と僕を守ってもらうためでした。……僕の母は、弱い人でした」


 フィリーネは目を見張った。

 たとえ彼の母に同情すべき点があったとしても、彼女のしたことは許せそうにない。

 母とフィリーネを死んだことにしていたことは特にひどいと思う。


 自分の無念はそれを与えた者に対して晴らせば良かったのだ。


 母は死ぬ間際、フィリーネに、父を恨まないであげてと言った。

 それは、恨むなら他の者にせよと父を庇ったのではなく、娘に恨みや憎しみに囚われないで生きてほしいという願いだったのかもしれない。


 そう思ってもいいのかもしれない。


 何より、アルトゥールの母がいなければ彼と出会うこともなかったと思えば、憎みきることもできない気がした。


「僕はあなたを守りたかった。母を守れなかった自分の無力さを知っていたからです。なのに逆にあなたを傷つけていたと知り、天地がひっくり返るような思いでした。あのとき僕は自分の気持ちを伝えたつもりだったけれど、押しつけるだけになっていたと後悔もしました。でも、一年経っても、あなたが会えない場所に行ってしまうとしても、気持ちは変わりませんでした」


 フィリーネは首を横に振る。彼の告白は押しつけなどでは決してなかった。


 アルトゥールは、フィリーネが何よりも求めていた言葉をくれたのだ。

 だからこそもう二度と会ってはいけないと、フィリーネは思っていた。


「あなたの言葉に甘えたら、わたしこそ、あなたを父の代わりにしてしまう。わたしはあなたに相応しくなりたい。優しくて強いあなたと、並んでも恥ずかしくないように」

 たとえ二度と会わなくとも。


 それが叶う頃には、フィリーネは老いてしわくちゃのおばあさんになっているかもしれない。

 でも、もしかしたら、使命を果たすために命を惜しまないアルトゥールは、そのときにはもう生きていないかもしれない。

 その想像はフィリーネの心を寒からしめた。


 動けなくなったフィリーネに、アルトゥールは馬の手綱を握ったまま近づいてくる。

 少しだけ身を屈めて、押し花の栞を握るフィリーネの手に触れた。


「誰も、誰かの代わりにはなれません。僕は偉大な騎士ではなくて、爵位も持っていません。でも、小さな居館と小さな荘園、馬を二頭預かっています。未熟な僕にはそれだけで手一杯です。それから、大切な女性が一人」


 彼の乾いた指がフィリーネの手をそっと握る。

「その人は僕にとって、たった一人の人です。その人の付けた名前でこの馬のことを呼べたなら、それだけで僕は幸せです」


 フィリーネはアルトゥールの手からそっと自分の手を引き抜いた。

 押し花がつぶれてしまわないように。

 そして、逆の手で彼の手を握り返した。


 温かく脈打つ彼の手が愛おしい。

 彼の言うとおり、その手の温もりは他の何にも代えられなかった。


 アルトゥールの眼差しは初々しい少年のようでありながら、青年の誠実さを湛え、フィリーネの知らない熱情をも秘めていた。


 フィリーネは唇をわななかせた。

 これから口にする言葉が、おそらく自分の行く先を変えるだろうという予感があった。


「――シュネーというの。雪のように白いから……」


 彼は小さく頷いて、フィリーネの手を白馬に導く。


 たてがみはしなやかで温かく、懐かしい手触りがした。

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