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気がつくと、フィリーネは夫人の隣に座って馬車に揺られていた。
自ら志願して辺境伯の城にやって来たのに、たった半日で元いた場所に逃げ帰ることになってしまった。
夫人が、アルトゥールと父がいる場所にフィリーネを置いてはおけないと判断したのだ。
何も考えられなくなっていたフィリーネには何よりも有り難い対応だった。
マクロフから彼が無事だと聞き、叙任を喜んでいたことがもう何日も前のことのように思える。
雨の中でアルトゥールの肩越しに父の姿を見たとき、フィリーネは驚きとともに、不思議な諦めを感じていた。
『……あなたは、この人が誰だか知っているの?』
父を指し示したフィリーネに、アルトゥールは目を閉じて『僕の父です』と答えた。
アルトゥールは義父のことを素晴らしい騎士だと尊敬している様子だった。
実子と分け隔てなく育ててくれたという。父のおかげで、アルトゥールは何の心配も無く騎士になれるのだと。
かたや、血が繋がらないのに大切に育てた養い子。
かたや、十年も顔を合わせなかった実の子。
都から遠く離れた地で、ひとりの父をめぐる二人が出会い、恋仲になっていただなんて、何という皮肉だろう。
決して相容れない者同士だというのに。
やはり、恋人を持ち、添うことを夢見るなど、父にさえ見捨てられた自分には過ぎた幸福だった。
父はそれをフィリーネに思い知らせるために、種明かしをしに来たのだろう。
「アルトゥール殿は、あなたのことを本当に知らなかったようなの」
「それは、わたしが、父の家では死んだことになっていたからですか?」
夫人は唇を開いたが、フィリーネの言葉を否定しなかった。事実だからだろう。
「わたくしが、もっとちゃんとアルトゥール殿の身元を確認していればよかった。手段はあったはずなのに、ごめんなさい。本当にごめんなさい」
夫人は少女のように涙ぐみ、フィリーネの手を握ってくれる。
あのとき、夫人に手を引かれてゆくフィリーネを、アルトゥールは黙って見送った。
その両の拳が小刻みに震えていたのをフィリーネは見た。
彼が自分のことを知らなかったのは嘘ではないはずだ。知っているのにそ知らぬふりをできるような人ではない。
初めに彼に名乗らなかった自分がいけなかったのだ。
家はないのだと不幸を気取っていた。
求婚したいと言われたときにさえ身元を明かせなかった。
名乗れば関係が破綻することに薄々気づいていたから、つかの間でも彼の側にいたくて言わなかったのかもしれない。
こんな形になるなんて、思い描いてすらいなかったけれど。
フィリーネは夫人に小さく首を横に振り、馬車の曇った硝子窓の向こうを見つめた。
まだ雨は降っているのだろうか。彼のいる場所にも。
数日後、城に客人があった。
父が、辺境伯領を辞して都に帰る道中に、単身でこの城へ立ち寄ったという。
フィリーネは領主夫妻の応接室に呼び出された。領主夫妻の前に父が腰掛けていた。
「……フィリーネ」
十年ぶりに父に名を呼ばれた。父はそれなりに年を取っていたが、都の大きな騎士団を預かっているという地位に相応しく、いっそう大柄で威厳のある出で立ちになっていた。
ただ、辺境伯の城で一瞬だけ垣間見たときよりも疲れているようだった。
領主が心配そうな夫人を促してふたりで退出したので、父子が残された。
「わざわざこちらへお運びくださったのは、どういうご用件ですか? もっと大切なお務めがあるのではありませんか」
「もちろん務めはある。だが、おまえと話をしなければならない」
父は腰を上げて一歩踏み出してきたが、フィリーネは同じだけ後ずさる。
もしも父がフィリーネを無視したなら、あるいは悪びれもせずに現れたなら、こんなにも腹が立つことはなかっただろう。
地位と身分のある妻を娶るためにおまえたちを捨てたのだと、貴族の血を引く養い子だから大切にするのだと当然のように言ったなら。
「お話することはありません。お母さまは死ぬ前に、『お父さまを恨まないであげて』と言い残しました。急に家を出されたことも、お母さまの見舞いに来てくれなかったことも、埋葬にも立ち会ってくださらなかったことも、恨んではいません」
父母と暮らした、小さくとも手入れの行き届いた館。
暖炉の前で本を読む父。
その隣で刺繍をする母の膝に甘えながら、フィリーネは温かで幸福な幼い日々が続くことを信じて疑わなかった。
九つの誕生日には、父が白く美しい雌の仔馬を連れてきてくれた。
結局一度もフィリーネを乗せることはなかったが、あの馬は今頃どこにいるのだろう。
必要なくなって、売られてしまっただろうか。
それとも、忘れられ、捨て置かれて、老いて死んでしまっただろうか。
「十年が経って、忘れることはできなくても、辛かった気持ちは薄らいでいました。アルトゥールがいてくれたから。あの人と一緒にいたいと思ったから。自分の身の上のことはいつか、気持ちの整理をつけて、彼にきちんと話したいと思っていました」
俯いて黙り込む。
アルトゥールの顔が脳裏に浮かんだ。
初めて会った時の初々しい顔。四年後に成長した姿。最後に見た、雨に打たれていた彼。
『あなたは、僕が誰なのか知ったらきっと、僕のことを憎むと思う』
これまでの彼を憎いとは思わない。フィリーネに温かな幸せをくれた、優しい人だ。
でも、次に会ったときにはこの胸に憎しみが生まれるかもしれない。
彼の顔を見て彼の母親のことを想像し、血を吐いて苦しみ抜いて死んだ自分の母のことを思い出すかもしれない。
彼の母はもう亡くなっているという。
まだ若かっただろうに、父との間に生まれた幼い子どもたちもいたというのに、どれほど無念だっただろうか。
でも少なくとも彼女は母と違って、夫に看取られて死ぬことができたのだ。
だから、もし次にアルトゥールの顔を見たら、フィリーネは彼に何て言ってしまうかわからない。
彼に相応しい自分でいられない。
唇を噛みしめて声を絞った。
「アルトゥールにはもう会いません」
顔を上げて父の顔を見る。はっとしたような目をしていた。
「私はおまえたちのことを邪魔立てするつもりはない。本当に好き合っているのなら一緒にしてもいいと思っている。アルトゥールは何も知らなかった。知った今でも、おまえに対して真剣だ。何より、おまえが恨むべきは私なんだ。おまえにはできる限りの償いをする。私の財産はおまえに譲る。おまえが望むなら地位を退いても構わない」
父が言い募れば言い募るほど、胸の底が冷たく凍るのを感じた。
脳裏に、母の亡骸に縋る幼い自分自身が映る。
「……それでは、お母さまとの約束を破ってしまう」
母の最期の言葉を守れず、アルトゥールに相応しい人間でもいられない。
フィリーネはそんな自分が許せなかった。
胸に抱いていた包みをそっと開いた。
父がフィリーネの身元を証すため、領主夫妻に預けていた証文とロザリオだ。
銀のロザリオには一点の曇りもない。
ときどき取り出し、磨いていたからだ。
会いに来てはもらえなくても、堅信さえ任せきりにされていても、これを預けてくれているということが、父が自分を大切に思っていると信じられるよすがだったからだ。
「これはお返しします」
フィリーネは証文を一瞥すると、ロザリオを添えて父に差し出した。
「何かを手放すことで償っていただく必要もありません。十年前、お母さまとわたしと引き換えに得たものではないのですか。なぜいまさら、手放そうとなさるのですか?」
父を拒絶することでしか、フィリーネは誇りを保てなかった。
もうそれしか残っていなかった。
父が立ち尽くしているのが目の端に映る。
フィリーネはそれを何とも思わなかった。
夜、雪が降り積もっていくのを見ていることしかできないような、ただ静かな諦めがあった。