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アルトゥールの幼い頃の記憶は、涙を流す母の姿から始まっている。
実父の顔は覚えていない。
六つまで同じ館で暮らしていたが、ほとんど顔を合わせることがなかったからだ。
父はその館に愛妾も住まわせており、そちらで起居していた。
愛妾は出身こそ商家の出だが、父の寵愛が深く、何人もアルトゥールの弟妹を産んでいた。家中の権勢も握っていた。
誇り高い母はそんな苦境を実家にも話せず、泣き暮らしていた。
彼は母に、泣かないで、大丈夫だからと何度も繰り返して慰めた。
母を守れるように早く大人になりたかった。
けれど、館中が父と愛妾の味方だったので、母子は惨めな目にあうことばかりだった。そんな日々が永遠に続くのかと思われた。
六つの時に転機があった。
母が彼を連れて実家に戻ったのだ。正式に離縁もした。
きっかけは、彼をどこに騎士修業に出すかを巡っての夫婦の諍いだった。
普通は母方、それが無ければ父方の縁続きの貴族の家を探すのが真っ当だが、父は愛妾の言うがまま、アルトゥールを他国に送ろうとしていた。
母はそれだけは許せず、狩猟に行こうと馬に乗った父と愛妾の前に立ちはだかった。
父がかまわずに馬を進めようとした先に、六つのアルトゥールが飛び出した。
幸い、アルトゥールが跳ね飛ばされた先は植え込みだった。
怪我そのものは軽かったのだが、その日のうちに母とともに馬車に乗せられ、祖父の屋敷に運ばれた。
驚いて二人を受け入れた祖父は母と父を離縁させた。
そして、娘のため、孫のため、相応しい騎士を婿に取ろうと考えたようだ。
騎士修業を始めるにあたって、相応しい後見ができる義父が必要だったから。
母の再婚相手は、他国出身ではあるが、めざましい功績を挙げている騎士だった。
当時は国王直轄の騎士団で副団長を務めていた。
義父は普段は穏和だが、自分にも己にも厳しく、文武に優れた素晴らしい人だった。
妻子はいたが、流行り病で亡くなったと聞かされた。
すぐに義父と母の間には弟が生まれ、母はそちらにかかりきりになった。
母は人が変わったように穏やかになり、優しくなり、泣かなくなった。
本当の母はこのような人なのだろうと、アルトゥールは思った。
どんなに美しい花も、毒のある土には根付けない。悪意に晒され、守られず、傷つけられている人は、どんなに気高く優しくとも、その心を保てなくなっていく。
彼が母を慰める必要はもうなかった。庇う必要もなかった。
義父が母を守ってくれるから、母を傷つける人はもういなくなったのだ。
やがてアルトゥールは騎士修業に出されることになった。
自分には過分な修業先が用意されつつあると知り、アルトゥールは遠くに行きたい、厳しくしてくれるところへ行きたいと訴えた。
新しい家族に、安心とは裏腹な寂しさを感じていたからだと思う。
義父と母、弟という家族の団らんに身の置き場がないような気になっていたのだ。
父が見つけてくれたのは、耐えず北狄に脅威に晒されているために、大きな騎士団を抱えた辺境伯家だった。
アルトゥールはそこではただのひよっことして扱われた。
ひたすら厳しい訓練と雑用に明け暮れたが、馬の世話だけは苦手なままだった。
従卒として近隣の城を訪れたときに、その人に出会った。
彼女は美しい人だった。
控えめで、雪の中にひっそりと咲く花のように儚い佇まいだった。
手を引かれて行った厨房でスープをもらったとき、全身が温もっていくような安堵を感じたのを覚えている。
それまでアルトゥールは、父の乗った馬に蹴散らされて馬が恐ろしくなったことを他の誰にも言えなかった。意気地なしと嗤われると思っていたからだ。
なのに、なぜだか彼女には打ち明けてしまった。
話しぶりから、馬の側で暮らしたことのある人だとわかったからかもしれない。
彼女は真っ直ぐな目で「怖かったわね」と言った。慰めでも同情でもなく、ただ淡々と。
あの小さな城を離れた後も、彼女のことが忘がたかった。
二度と会えない人だとしても、忘れたくなかった。
それから間もなく、マクロフという騎士に従騎士として従うようになった。
いずれ筆頭騎士になるだろうと見込まれている、面倒見のよい気さくな男だ。
彼の下でさらに手厳しく訓練され、アルトゥールは背も伸び体格も一回りも二回りも大きくなった。
自然と馬を怖いとは思わなくなった。
恐ろしいのは、悪意を持って馬に乗る人間のほうだからだ。
いつか、自分がそういう人間になるかもしれないことをこそ、怖れなければならないと思った。
そのうち母が病に伏したという報せを聞いた。
アルトゥールは騎士修業を始めてから八年近く経って、初めて帰郷した。
既に死の床にあった母は、アルトゥールの騎士としての姿を見られなかったことだけが心残りだと言った。
それが最期の言葉だった。
幼い弟妹は義父に縋り付いて泣いていた。
子どもたちを抱きしめる義父の肩は広く、アルトゥールは義父が彼らを守ってくれることに安堵した。
そしてもう、この家に帰ってくることはないかもしれないとさえ思った。
間もなく叙任を迎えられるだろうという頃、再びあの城を訪れることになった。
もう会えるはずがないと思いながらも、必死に彼女の姿を探した。
逸る気持ちを抑えられなかった。
そして、彼女を見つけた。
彼女は、四年の月日でたおやかな貴婦人になっていた。
陰ひなたなくよく働く人のようで、老いにも若きにも慕われていた。
一緒に歩いていると、城内を駆け回る子どもによく声をかけられていた。
彼女は「長くいるから覚えてもらっているだけよ」と笑ったが、アルトゥールはそれだけではないと思った。
共に過ごし、語り合ううちに、貴婦人の顔に少女のように頼りない表情を浮かべる瞬間があることも知った。
軽々には語れぬ家の事情があるのだろう。きっと辛い思いもしたのだろう。
本当は彼女のことが知りたかった。
幼い従卒だったころはともかく、従騎士となったあとは、彼女に知られずに素性を探る手立てもあったように思う。
あなたはどこで生まれた人なのか。どんな風に育った人なのか。なぜいつも寂しそうな目をしているのか。
聞きたいこともたくさんあったけれど、踏み込むことはためらわれた。
おいしい食べ物、面白い本、城で起きた小さな出来事について話すとき、彼女の目はきらきらと輝いている。
特に、馬のこととを口にするフィリーネは夢中で可愛らしい。
小さい頃、馬に乗れるようになりたかったけれど諦めたのだと言っていた。
その悲しそうな目にアルトゥールは吸い寄せられてしまいそうだった。
もし、自分が無遠慮に彼女の心に踏み込めば、その美しい瞳はたちまち翳ってしまうだろう。
彼女が目の前にいてくれて、ささやかで温かな時間を共有できることが嬉しかった。これからもずっとそうしたいと思った。
求婚をやんわりと断られたのは悲しかった。
でも、恋人になってほしいと申し出て、受け入れてもらえたときは、天にも昇る心地だった。
義父が母を守ってくれたように、彼女を守れる騎士になりたいと思った。
雪の中でひっそりと咲く花のような人が、せめて穏やかに暮らせるように。
優しい心でいられるように。
早く一人前になりたくて、アルトゥールは早朝や夜、休暇の間も休まず、いっそう訓練に打ち込んだ。
始終一緒にいるマクロフにはそれが手に取るようにわかったのだろう。
ふたりきりの訓練場で剣の稽古を付けてもらっている最中だった。
「焦っているのは女のためか?」
ずばりと言い当てられ、彼女のことをほとんど全て白状させられた。
「領主に預けられているなら身元は確かなんだろうが、明らかに訳ありだぞ。亡国の王族とか、逆に、罪人の家の生き残りとか」
「そのような人、滅多にいるものではないでしょう」
「じゃあ、都のお偉いさんの庶子とか、後妻に疎まれてる先妻の娘というところか。いくら独り立ちするつもりとはいえ、そんな相手との結婚をおまえの家が許すとは思えん。求婚を断った相手は賢明だ」
義父の名はこの辺境でも有名だ。
アルトゥールがその猶子であることは、辺境伯夫妻をはじめとした一部の人にだけ知られていて、マクロフもその一人だった。
「家が許さないのなら、結婚という形にはこだわりません。ただ、早く一人で家を立てるために、あの人のために、早く一人前の騎士になりたいんです」
容赦なく木剣を打ち込まれ、アルトゥールは地面に横倒れになった。
マクロフが立ったまま見下ろしてくる。
「焦るなよ。誰と自分を比べてる?」
畳みかけられ、言葉に詰まった。脳裏に浮かんだのは、義父の姿だった。