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 四年が経った。


 その間、領地が襲撃に遭うことはなく、穏やかな日々が続いていた。


 堅信式を受け、前髪も上げた。

 夫人が父に事前にその支度について手紙で相談したところ、返答はお任せするとの一言だったという。


 その後の身の処し方についても何の話もなく、フィリーネはこの城で領主夫妻預かりの客人という宙に浮いたような存在のままだった。


 他の行儀見習いの少女たちはとっくに夫妻の世話を受けて嫁入りしていった。


 フィリーネは、自分の寄る辺ない身の上や、あっけなく壊れた両親の結婚のことを思うと、とても誰かに嫁ぐことなど考えられない。


 でも、実父が領主夫妻に毎年自分の生活費を渡していることも知っていて、施しを受けながら生きていることをいたたまれなく思うのだった。


 領主夫人はそれを察してか、フィリーネがゆくゆくは貴婦人の付き添い役として身を立てられるようにしたいと夫に話してくれている。フィリーネが人の話をよく聞き、辛抱強く働くところが美点だと褒めてくれるのだった。


 夫人は厨房や衣装の管理だけでなく、慰問の随行や手紙の代筆まで、奥向きに必要と思われることは惜しみなく手本を見せ、丁寧に教え、信頼して任せてくれる。


 嫁いでいった少女たちには教えられなかったことを一緒にできると喜んでくれる。


 フィリーネにはそれがとても嬉しかった。


 冬の終わり、久方ぶりに辺境伯領から騎士たちがやってくることになった。


 国境近くで北狄が武器を集め兵を動かす準備をしているので、数人の騎士が情報収集がてら警戒を呼びかけに回っているという。


 一行の中に見覚えのある少年の姿はなかった。


 フィリーネは少し落胆したが、いつもと変わらずに忙しく立ち働いていた。


 城の回廊を歩いていると、ひとりの青年にすれ違いざまに声をかけられた。彼は足を止め、じっとこちらを見ている。


「僕のことを、覚えていませんか」


 声にも姿にも覚えはなかった。


 年季の入った従騎士の軽装に身を包んでいて、曇天の下でも輝く金髪と、春の海のような青い目が冴え冴えと美しい男だった。


「すみません。覚えていませんが……四年前もこちらに来られた方ですか?」


 フィリーネが言うと、青年は目を見張って顔を伏せた。

 その頬がたちまち林檎のように赤く染まっていくのを見て、フィリーネはあっと声を上げる。


「……お花をくれた子……?」


 その呟きを拾って、青年は顔を上げて目を輝かせた。


 四年の月日があの少年の姿を変えたのだ。

 声も変われば背も伸びて、身体は鍛え上げられ、別人のようになるはずだ。


「また会えると思ってませんでした。あなたは行儀見習いのご令嬢のようだったから、もうこの城にはいないのだと……」

「わたしも。あなたは修行の身の上だろうから、騎士になっているとばかり」


「従騎士になって三年になります。今でもあなたの名前も聞かずにいたことをずっと後悔していました。教えてくださいませんか」


 フィリーネは言葉に詰まる。


 父の新しい家名を名乗ることはできないと思ったから、名前だけを彼に教えた。

「家はもうありません。だから、ここでずっとご厄介になっているの」


 青年は静かな目で頷いて、アルトゥールと名乗った。

「僕も、今いる家の名を名乗れる立場ではありません。ぶしつけなことを聞きました」


 それから、騎士団の滞在の間、アルトゥールと何度か一緒になった。


 一行を歓迎する宴で、庭園のあずまやで、騎士たちの訓練場の裏で。

 フィリーネが近くの村の教会に届け物に行ったときには、いつも一人なので大丈夫だと言ったのに、休暇だからと護衛をしてくれた。

 馬に乗せてもらったのに、おしゃべりが楽しくて行き帰りに時間が掛かり、結局は一人で歩いていくのと同じくらい時間をかけてしまった。


 同じ詩集が好きだとがわかり、食堂の片隅でフィリーネの部屋から持ち出した本を一緒に読んだ日もあった。

 その本から四年前に彼がくれたサクラソウの押し花を挟んでいたのが見つかって、奇跡のような偶然を笑い合った。


 雪原での視察の帰りには、同じ花を小さな花束にして持って帰ってきてくれた。


 ふたりは夕暮れの厩舎のそばで、花束を間にして語らった。


「馬が好きになりました。今は騎士団の馬も実家の馬も同じほどに大切です。自分の馬ももらえたんですよ」

 アルトゥールの端正な顔に少年っぽいはにかみが浮かぶと、フィリーネはなぜか胸が小さく締め付けられた。

 彼と話していると時間を忘れてしまうことにも気づく。側にいて、こんなに気持ちが楽になる人は初めてだった。


 彼はあと一年か二年すれば騎士に叙任されるということだった。

 修行を終えても家には帰らず、幼い頃から厳しく鍛えてくれた領主にこのまま仕えたいという。


「両親はもともと、僕を都の有力者の家に修行にやり、祖父と父にも口添えしてもらって、ゆくゆくは国王ご一家の近衛隊に入れるつもりでした。それならずっと都にいられるし、王族の誰かに友誼を得て取り立ててもらえるかもしれないからです」


 アルトゥールはよほど立派な家の子息なのだろう。

 けれど、辺境伯の元で地道な修行に励んでいるところを見ると、父母の用意した道を退けてきたようだ。


「僕は未熟で、そんな華々しい務めに相応しくありませんでした。だからこそ、家の名が及ばない、厳しく修行をつけてくれるところに行きたかった。将来、家を出てもひとりで騎士として生きていけるようにです。そう話すと、父は僕を辺境伯の元に預けてくれました。旦那様は立派な方で、騎士団は北方の守りと呼ばれるほど精強です。まあ、それでも僕は、従卒になってもしばらくの間、馬の世話をまともにできなかったけれど……」


 フィリーネは微笑んだ。でも、なぜそんなにも彼が家を離れたがるのかわからなかった。


「父は素晴らしい騎士です。血のつながりのない僕に弟妹と分け隔てなく接してくれます。叙任の費用を借金でまかなう従騎士も多いのに、母が昨年に亡くなったあとも、父は支度のために援助を惜しまないと言ってくれます。家督を僕に譲ってもかまわないとさえ……。でも、僕は叙任されたらひとりで家を立てます。家名は弟が継ぐべきだから」


 フィリーネは黙って花束を抱える手に力を込めた。

 彼の感じる父への敬愛と恩義、裏腹な後ろめたさが伝わってきたからだった。


 初めてこの城で会ったとき、年下の少年であること以上に、何だか彼を放っておけない気持ちになった理由がやっとわかった

 彼にどこか自分と似通う寂しさを感じ取っていたのだ。


「だから、僕にはこの身体ひとつしか財産はありません。まだ独り立ちもしてない身なのにおこがましいけれど……」

 言葉に詰まりながらアルトゥールはそっと目を上げる。


「……教えて下さい。あなたに求婚するためには、どなたの許しを得たらいいですか」


 彼が何を言ったのかわからなかった。

 フィリーネが首を傾げると、彼は真剣な顔で続けた。


「まだあなたに、結婚を約束した人がいなければの話なのですけど」


 フィリーネは慌てて首を横に振る。

「それはいないわ。でも、なぜ?」


「初めてあなたに会ったとき、僕はこの厩舎からの帰りで、疲れてお腹もすいていて、今にもしゃがみこんでしまいそうだった。そこに現れたあなたは、まるでこの花のようだった。雪の中で、そこだけが暖かい春になったように見えました。ずっと忘れられなくて、会えない間はもう一度会って名前を聞ければ十分だとも思っていました。でも、一緒にいられる時間が増えるほど、もっと会いたいと思ってしまうんです。こんな気持ちは初めてです」


 それはフィリーネも同じだった。彼のくれた花に目を落とす。

 黄色い花は瑞々しく香っていて、この花のようだなどという褒め言葉は自分にはもったいなく思えた。

 彼の気持ちが信じられないほど嬉しく、そして、かえって申し訳なかった。


「わたしはあなたより年上よ。それに、持参金どころか、結婚の支度なんて全く用意できないわ」


「年は関係ありません。財産は僕にもありません。でも叙任されれば、贅沢はできなくても食べてゆけるくらいのお禄はいただけると思います」


「前にも言ったでしょう。わたしには帰る家がない。……わたしをここに預け、生活の費用を与えてくれる人はいるけれど、結婚を祝福してくれるような人ではないの」

 言い募りながら、それまで仄温かかった胸が冷え冷えとしてくるのを感じる。


 本当はこんなことを言いたいのではなかった。

 自分も彼と一緒にいたいと、求婚の申し出が泣きたいほどに嬉しいのだと言いたかった。


 アルトゥールが少し背を屈めて顔を覗き込んでくる。

「……では、僕の恋人になってはくれませんか」


 彼は頬を林檎のような色に染め、真っ直ぐに見つめてきた。

「僕が立派な騎士になるのを見守ってほしい。そして、あなたを守らせてほしい」


 胸が甘くときめいた。そうだ、彼に会って初めて覚えたこの疼きは、きっと、好意というものなのだ。


 自分の身の上を打ち明けるべきなのか迷った。

 でも、ある日突然に母と共に父から離縁されたこと、それから間もなく母を失ってひとりぼっちになったことを、自分と母は信じていた父親にすら切り捨てられた人間なのだということを、言葉にできなかった。


 あの惨めさを忘れることも、悲しみに蓋をすることもまだできないことに気がついて、自分の未熟さが恥ずかしく思えた。


 彼は最後に一度だけ、優しく手を握ってくれた。

 その彼に、いつか必ず話せるようになりたいと思うのだった。




 アルトゥールは主の覚えもめでたいようで、それから一年の間、フィリーネの住む城にしばしば伝令として馬を走らせてきた。


 それは国境付近の北狄の動きをこちらに報せるためであって、緊迫した状況であることを意味したので、フィリーネは彼の身の安全を案ずることが増えた。


 お互いに浮ついたことはしないが、すれ違いざまに彼の無事を確認し、視線を交わせるだけでフィリーネは幸せだった。


 早朝、領主からの手紙を携えて帰路につく彼のために食事を包み、手渡したときには、触れあった指先の温かさに泣きたくなるような気持ちになった。


「あの従騎士どのなのね?」

 朝焼けの空の下、馬上の影が小さくなっていくのを見送っていると、後ろから領主夫人に声をかけられた。


 彼女にだけは、親しい仲になっている人がいることを打ち明け、相談していた。

 正式な結婚はできなくとも、いつか連れ添いたいと思っていると。


「ねえ、あなたをわたくしの付き添い役として正式に雇いたいわ」

 フィリーネは突然の申し出に首を傾げる。夫人は優しく言った。


「今やあなたはこの城に欠かせない人よ。あなたはここに来たときから何でも身につけていて、わたくしがほんの少し教えたこともすぐに覚えてくれたわね。それはあなたのお母さまのご教育の賜物で、わたくしはこれまであなたに甘えていたわ。だから、あなたのお父さまが生活費を送って下さるのを心苦しく思っていたの」


 夫人はフィリーネの手を引いて城内に誘う。

「本当は、若いあなたには、長く一緒にいられる雇い主を見つけなければと思って、言い出せないでいたの。わたくしは、もしも夫に先立たれるようなことになったら、修道院に入るつもりでいるものだから。でも、あなたに将来を約束した人がいるのなら、いいわよね」


 夫人はフィリーネと並んで歩きながら言った。絶え間なく明かりの灯った明るい廊下だ。

「お父さまに、今後の生活のご心配はご無用とお伝えしましょう。それに、いくばくか自分の蓄えができれば、いつか新しい生活の支度に使うこともできるわ。自分で自分のために家を整え、衣装を用意するのよ。素敵ではない?」


 それは、父に養われている負い目を感じさせまいという、夫人の心遣いに違いなかった。

 きっと父は祝福などしてはくれないだろうけれど、自分自身が自立してさえいれば、少しでも胸を張っていられる気がする。


「奥様、ありがとうございます……」

 夫人は、涙ぐむフィリーネの手を強く温かく握ってくれた。

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