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 残されたフィリーネは、北方に所領を持つ老いた貴族のもとに預けられた。


 行儀見習いという名目だったが、領主もその夫人も、フィリーネに帰る家はないことを知っていて受け入れてくれたのだった。


 父は領主夫妻に、司祭が記した出生証明書と、祖国から持ち出した銀のロザリオを預けていた。貧しく苦しい日々でも唯一売らずに守り抜いた、家宝といえるものだった。


 フィリーネは他の行儀見習いの少女たちとともに、領主夫人のもとで貴婦人教育を受けた。

 少女たちは二、三年をここで過ごすと、順番に相応しい縁談を世話され、花嫁支度まで整えてもらい、嫁いでいくのだった。


 ある年の冬、雪の森に呑み込まれてしまいそうな小さな城に、西方にある辺境伯領から騎士に一団が訪れた。


 辺境伯領を含めたこの一帯は、北方に住む騎馬民族から繰り返し侵攻を受けてきた。


 彼らは平原で騎馬と農耕を営んで暮らしてきたが、馬を巧みに操り、川と森を越え、電光石火の勢いで村や町、修道院を襲って略奪を繰り返した。近年は定住を希求して勢いを増し、砦や小城を攻め落としては国境を南に押し下げている。


 領主は、小さくも豊かな土地ゆえ、深い森を隔てたこの地にも脅威が及ぶことを懸念していた。老齢ゆえ、向後に不安の種を残しておきたくないのだろう。


 そこで、農閑期であり、雪のために攻め込まれる心配のないこの時期に、辺境騎士団を招いて騎士の訓練を行うことにした。


 演習という名目でも、国境の警備を固めていると知らしめることが牽制となるし、城壁の改修にあたって助言ももらうという。


 大所帯の客人を迎えるため、フィリーネは他の使用人たちと大わらわだった。


 ある日の夕方、フィリーネは城の南の果樹園から籠一杯の林檎を運んでいた。

 林檎は重いが、これが朝食に並ぶ様子を想像すると胸がわくわくする。


 中庭に面した回廊を進んでいると、厩舎の方向から細い人影がやってくるのが見えた。

 見覚えのない少年がとぼとぼと歩いている。


 フィリーネより二、三歳年下のようで、従卒らしき身なりをしていた。

 城の他の者は夕食を済ませている時間なのに、居残りで馬の世話でもしていたのだろうか。


「あの……、あなた」


 声をかけると、少年は怯えたように足を止め、顔を上げた。

 夕闇に沈みかけた空の下で、少年の金髪と青い目は不釣り合いなほど眩しく見えた。


「夕食を食べ損なってしまったのではない?」


 尋ねると、少年は恥ずかしそうに目を伏せ、小さく頷いた。


 フィリーネは、立ち尽くす少年の手を引いて厨房へ入った。大鍋に残ったスープをよそい、パンと一緒に差し出す。


 少年はあっという間に、しかし洗練された所作で全てを平らげた。腹が膨れると人心地ついたようで、ぽろっと小さくこう口にした。


「馬が苦手なんです」


 少年は辺境伯領からやってきた騎士団の従卒だった。従卒の仕事は一に馬の世話、二に雑用だという。


「小さいときに馬に怪我をさせられたことがあって、怖いんです。このままでは立派な騎士になれないので、直したいと思うのですが、僕が怖がっているのが馬にもわかるみたいで」


 しゅんとする様子が労しかった。


 父と暮らしていた頃、馬はフィリーネの友達だった。

 父はフィリーネのために白い雌の仔馬を探してきて、馬に名前をつけさせてくれた。


 早く乗せてもらえるようになりたいと、フィリーネは父と厩番に教わって頑張って世話をした。

 その前に家を離れてしまったので、夢は叶わなかったけれど。


「後ろに立っていて蹴られてしまったの? それとも、乗っている誰かにわざとされたの?」


 スープを飲み終えた少年は、スプーンを握りしめたまま沈黙した。


 不注意で後ろに立っていて蹴られたならば、それはもう馬の習性なので仕方のないことだ。そう言わないのは後者だからだと、フィリーネは察した。


「そう。怖かったのね。怖いわね。馬にそんなことをさせるのは……」


 少年は小さい頃の出来事だと言った。

 幼い子どもに馬をけしかけるとは非道な行いだ。死んでもかまわないとでも思っていなければ、そんなことはできない。


 ふたりはそれきり黙り込んだ。やがて少年は滞在している離れに戻ることになった。


「……あの……、今日はありがとう」


 別れ際、少年ははにかんで礼を言った。その頬が林檎のように真っ赤に染まっていた。


 数週間の滞在の間、何度目かに彼とすれ違ったときのことだった。

 少年が後を追いかけてきて、黄色いサクラソウの花を差し出してきた。


「行軍練習の帰りに見つけたんです」


 フィリーネは黙って花を受け取った。


 冬に咲く花は珍しい。この花は雪の中、しかも山岳に咲く。危ない思いをしながら摘んだのかもしれない。


 礼を言おうと顔をあげたときには、少年はぱっと駆けだしていた。


 翌日、一行は領地に帰っていった。


 少年はきっと、騎士修行のために隣の領主に預けられた、どこかの貴族の令息なのだろう。

 修行が済んで騎士となれば、実家に戻ったり、他家に士官したりするのが常だ。


 フィリーネは少年に名前も名乗らなかった。相手の名も聞かなかった。


 でも、それでよかったと思った。


 そして、一輪の花を押し花にして本に挟んだ。

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