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昔むかしあるところに、一人の貧しい騎士があった。
祖国の政争で主を失い、恋人を連れて異国に流れ、一兵卒として都の騎士団に入った。
二人は街の外れの雨風をしのげるだけのあばら屋で、言葉もおぼつかぬ女が何とか手に入れた黒パンを分けあい、身を寄せ合って暮らした。
信じる神は同じでも、宗派の違う異国で暮らすのは容易なことではなかったが、次第に慣れていった。
二人の間に生まれた娘は、新たなふるさとの言葉でフィリーネと名前を付けられた。
騎士は元々勇気ある優れた武人だったので、みるみるうちに頭角をあらわし、地位ある人に引き立てられ、騎士団の副団長となった。
騎士は苦労をかけた家族にようやく安寧の地を与えられたことを喜び、いっそう務めに励もうと誓うのだった。
騎士は従軍するつど褒賞を受け、その地位も高くなっていた。
小さな館を賜り、使用人を雇うようになり、馬も増えた。
幼いフィリーネは新しい馬がやってくるたび飛び跳ねるように喜んで、「いつかお父さまのように乗れるようになる」と言うのだった。
そしてとうとう、国王陛下から直々に勲章を賜るようになったころ。
この国に来たばかりの騎士を引き立ててくれた貴族が、騎士に縁談を持ち込んできた。妻と子は館に置いたままでもよいから、自分の娘と結婚してほしいという。
令嬢は一度は嫁いだが、とある事情で離縁し、幼な子を連れて実家に戻っているという話だった。
その子は男の子で、将来騎士として身を立てるのに父がいなければ不憫だという。
貴族は、令嬢と連れ子が暮らしに不自由せぬように、先祖代々の領地を切り取って持参金に加えようとまで言った。
騎士はその申し出を一度ならず断った。
この国に来て、いくら周囲に勧められても宗旨替えをしなかったのは、この国の教会が認める離縁という制度がどうにも受け入れがたかったからだった。
しかし、恩ある人に何度も懇願され、さらには一族に連なってほしいという貴族の好意を無下にすることは躊躇われた。
騎士は悩み抜いたすえ、妻子と離縁し、縁談を受けることにした。
国王の裁可はすぐに下りた。
まもなく、騎士団の執務室に、義父となる貴族がばつの悪そうな顔でやってきた。
令嬢が、妻子を愛妾として家に置くことを耐えがたく思い始めているという。言外に追い出せと言っているのと同じだった。
騎士は、話が違うと、縁談をなかったことにしたいと反論しようとした。苦労をさせた妻子を捨てるくらいなら、異国で辛酸を舐めてきた意味などないと。
しかし、国王の許しを得た結婚を反故にすることの恐れ多さを知らぬほど、騎士は若くはなかった。そして、自分がこの国で得た地位と身分も、簡単に擲てるほど軽くはなかった。
離縁すると打ち明けたとき、妻は黙って頷いていた。何も知らない娘は、父と一緒に仔馬の世話をするのを楽しみに帰りを待っているはずだ。
そのふたりに何と言い出せばいいのか。
騎士は暗澹たる思いで全てを飲み込んで、諾と返答した。
翌年の春、騎士は貴族の娘と婚儀を挙げた。
同時に、義父の勧めで家名を当国風に改めもした。
その後、後妻の実家からの援助と引き立ての甲斐あって、騎士は爵位に叙された。後妻との間に子も生まれ、優れた家臣を抱えるようにもなった。
国王の覚えもめでたい彼をやっかんで、一部の人は密かにこう呼んだ。
国を替え、名を変え、宗派を変え、妻まで替えた変節の騎士と。
***
異国にまで連れ添った夫から離縁を告げられ、女は娘とともに家を出された。
十を過ぎたばかりのフィリーネは、己を取り巻く環境が全て変わってしまったことに気づいているようで、黙って母に寄り添っている。
前夫は都の外れに小さな館を用意し、不自由なく暮らせるほどの年金を約束してくれた。月に一度は手紙が届くが、正室の目が気になるのか訪問することはなかった。
いっそのこと祖国に帰ろうかとも思うけれど、この国で生まれ育ち父母の祖国のことは知らぬ娘のことを思うと踏ん切りがつかない。
思い悩む日々を過ごしているうちに、取り返しのつかないことに気がついた。
女は胸の病に冒されていたのだった。
治療の甲斐もなく、女はたちまち寝付いた。起き上がることもできなくなり、そのうち血を吐くようになり、苦しんだ挙げ句あっけなく亡くなった。
涙をこらえる気丈な娘に、「お父さまを恨まないであげて」と言い残して。
前夫と離縁してから、三年も経たぬうちのことだった。