第8話 ファンタナールとリトリウス1
少年はトゥントゥンと微かに、だが部屋全体を支配するその低い音を聞いていた。
大型軌道母艦ファンタナール。
高出力エンジンの音は、艦にとってはいわば心臓の鼓動だ。
これから帝国への実習航行の間、常にこの音と微細な振動に包まれる。
ファンタナールとは、草原の乙女の名。
神々と、そして神々から第一代、二代めの時代の聖人の名は人名にも良く使われる。
女の子に最も多いルーリアという名前は、太陽系連邦ではマリアに相当し、慈愛を表す名前である。水の女神の恵みは女性の愛情に近く、平民でも貴族でも好んで付ける名である。
父のラヴィロアという名は真実という意味を持つ。レイノルズ修道士の言によると、太陽系連邦では愛称のラヴィがそのまま「愛しい人」になってしまう。まあ、そうなのかもしれない。みんなに愛されていたから。
少年の名。
ガルディアで、愛称はギル。
ガルディアは、アストレーデ神話における死者の国の宰相、カーラギルスの二人の妹、病禍の女神ルワナラーダと、戦禍の女神ガルディナーダのうちの、この戦禍の女神の名に由来する。
神話の時代、まだ人が死を知らぬ頃に、流砂に生きながらに埋もれた国の王子カーラギルスが、至高の神である鬼神アーヤキに「死」を与えられ、死者の国の宰相として、この地上に復讐するために遣わした二人の禍々しき女神。
少年は、もう一つ、幼い頃、修道院の幼児部で身分を隠すためにつけられたダリルディーンの名ももっているけれど。
あの父親が、恨みを晴らすために何者かに頼ることはないだろうし、そもそも人を恨む事自体があり得ない事なので、これはどのような気まぐれによって付けられた名なのだろうと少年は思っていた。
恨みとは何なのだろう。
不当な喪失に対する怒りなのだろうか。
そして、その怒りゆえに、他の者に対する喪失をもたらすことを復讐というのだろうか。
喪失が復讐を産むなら、復讐によって生まれた喪失が、また復讐を産む。
ならば、最初で復讐せねば、そこで喪失は止まるのに。
少年は、背中に空虚な闇を感じた。
父の命を奪った者に対して、自分は恨みを抱いているのか。
不思議と、そんな事は感じていないが、恨みを感じる事が、もしかしたら肉親の情として正常なのだろうか。
なぜ、自分は、恨みを感じる事なく、父の死を自然と受け入れたのか。
人の魂のありようを学んだ修道士であるからか、それとも、戦いや政争の意味を知る騎士団員だからなのか。
そもそも、恨みというものが、そういった後付けの理性でおさめられるものなら、人は最初から復讐などしない。
「ジャザイル研修生!!」
背後の席から声が飛んだ。
教官のストレイカー少佐である。
「初日だぞ。ぼんやりするな、坊や。」
「はい」
星の海の中に居るのは不思議な感覚で、乗船以来宇宙船酔いのせいか、常に頭の奥が重い。そのせいで、ついぼんやり考え事をしてしまう。
ブリッジの全方位型スクリーン上に、星の海を背景に併航する戦艦リトリウスと従属艦が見える。そして、その向こうには、第八番艦隊が一望できる。
騎士団長専用艦ファルタナールとリトリウスは、ともに大型軌道母艦である。
規模と重量から着水型ではない。軌道エレベータによって地上と結ばれた衛星軌道基地を母港とする。
所属する艦隊は持たないが、双方とも、護衛として、前面、上下左右に重攻撃戦艦五隻を配し、その周囲を高速機動空母十隻で守る。計三十二隻で常に行動することが決まりである。
少年自身は、実習公開中の学生にすぎないが、それでも騎士団長の職務を継承したということはこの艦艇を使用せねばならない。
「ジャザイル研修生、もしかしたら船酔いだろう。民間の客船なら、居住施設で吸収しきれないノイズを出すエンジンは使わないからね」
第八番艦隊司令官として、今回帝国に移動するアーサー・レイノルズ三位修道士は少年に云った。少年の実習課題は、八番艦隊司令官の従卒、簡単に言えば、雑用係である。
「操艦士官は0−8当直の者は本時点をもって8−16当直者に申し送り業務を開始すること。
引き継ぎ完了より順次交替、0800時をもって8−16当直者に業務移行後、操艦及び作戦士官は総員ブリーフィングに入る」
艦長のファルド少佐が命じる。
その命令の直後より、交替要員がブリッジに入室してきた。
「ジャザイル研修生、アレイル研修生、きみたちは物資部に行って会議用の飲み物の手配を手伝っておいで。
ストレイカー少佐、監督をよろしくお願いします」
レイノルズ修道士が言った。
「ガルディア・ジャザイル、並びにロシス・アレイル、ただいまより物資部に向かいます」
司令官席の両背後に控える二人は、敬礼して復唱した。
「では、司令官修道士、ストレイカー少佐、これより教官として両名を監督致します」
実務経験のない二人の少年には、まだ具体的な仕事はない。
このような軽い雑用で、騎士団という組織の命令と復唱という手続きに慣れるという基本的なところから始まる。
むろん、学院でもそのようにやるのだが、実践になると多少の臨機応変さも必要となってくる。
夕刻。1600時に少年は研修から解放された。
それから1800時まで講義と基礎体力訓練。
怪我で航行実習に参加できなかったロシス・アレイルが居なかったら、少年はひとりでいろいろと困っただろう。
そして夕食となったが、あまり食欲が無くて、どうにかパンをスープで流し込んだのだが、頭の重さはすっきりしない。
しばらく自室で横になっていたのだが、圧迫された感じがして、枕を持って展望室にやってきた。