第30話 崩御 1
その子が王妃の階のエレベーターホールからこっそりとこちらを覗いているのは知っていた。まだ見習いの、女官の資格すらないメイドをひとりだけ引き連れて。
知っているから、わざわざ廊下で女官たちに指示を出したり、いらぬ小言をくどくどと云ったりしている。
母としての私に会いにきたのだろう。
でも、私はその幼子をどうやってそばに呼び寄せて、どうやって抱きしめてやればいいのか分からない。
公式の席で稀に会うその子は、教育担当女官の前で硬い表情でただ私を見上げるだけだ。
少し笑いかけてくれることもある。だが、私は上手く微笑んで返すことができなくて、凍り付いたように口角を上げるのがやっと。
嫁いでしばらくは、もっと上手に作り笑いをすることが出来たはずなのに、王に対しての怯えの張り付いた笑みでは王妃としての威厳をたもつ事ができず、むしろ不機嫌な顔つきで睨んでいたほうがよほど楽なことに気がついて、私は穏やかに微笑む術を忘れてしまった。
だから、わたしがその顔に笑みを浮かべれば、その子は身をすくませてしまうのだ。
王陛下が病に斃れた後に生まれたガーレンは、本当に楽にするりと産まれてきた。
陣痛が始まって、またあの苦しみが始まるのだと半ば畏れ、そして少しでも楽なようにと神に祈りながら産室に入って一時間もせぬうちの事だった。
あまりにあっけなかったので、私は思わず頬が緩んで、産まれた赤子をすぐに受け取ってにっこりと微笑み掛けた。
ああ、こうすればよかったのだと、私はようやく分かったのだ。
カーレルがガーレンを見に来たら、ガーレンを片手で抱いて、もう片方でカーレルを抱いてあげようと思いながら、産褥の始末を終えて、眠りにおちた事を覚えている。
「ミスチア様、お目覚めください」
遠くで侍従の声がする。確か目覚めたときには、あの子は私の前にあの女と立っていた。
「陛下よりご伝言をお持ちしました」
ぼんやりと目覚めて見れば、大公妃が遣わした、私よりももっと垢抜けない重苦しい身なりをした妾妃パリシア伯爵夫人がそう言葉を掛け、跪礼をして私の許しを待っていた。
その横で、まだ幼いカーレルも同じように跪礼をしている。
まるで母子のようなその姿に、私は心から嫌な思いがした。
「ご苦労様」
私は産褥の痛みに耐えながら、陛下の言葉をその女から伝え聞くために身を起こして、簡単であるにせよ着衣を整えねばならなかった。
「陛下はなんとおおせでした」
そう言葉を掛けてから、あとは何を言われたのか覚えていない。
ただ、私は目の前のカーレルから視線を動かすことはできなかったのに、出産直後に感じた私が母としてカーレルに示すべき回答を、実践することが叶わなかった。
神々は私をお許しにならないのだろうか?
この子の産まれたその時に、この子を贄として差し出して、陛下を呪ったあの日のことを。
「ミスチア様、お目覚めください」
もうあのような思いはしたくない。
「──カーレル様は、お母上を求めていらっしゃいます」
はっと正気に返った。
ああ、そうだ。
私は取り返しのつかぬ事をしでかしてしまったのだ。
「シド、シド、」
飛び起きて、まるで闇の中で手探りするように、私の従僕の名を呼んだ。
「私は、ここに居ります、陛下」
両手首を掴まれて、頭を胸に抱かれる。
実の息子とさして歳の変わらぬこの男を愛人にしたのはほんの気まぐれであったはずだ。
差し出された手に、そういえばあの子の手ももうこれくらいは大きいのだと思い頬を寄せた。捨て去ったその心を認めるわけにはいかなくて、その手の持ち主をさらに引き寄せ、その腕に身体を預けた。
その男に今、呼ばれたのだ。
※ ※ ※
ミスチアはシドの胸から離れ、落ち着いた声で問いかけた。
「カーレルはどうしました。傷は深いのですか」
頭の中に疼痛と、そして大理石のように冷たく冷えた心があった。多分、安定剤のせいなのだろう。感情が凍り付いたように動かない。
「傷は、眼窩から脳に達しております。止血パッドを用いていますが、難しい部位のため出血が止められず、おそらくあまりお時間はございません」
「事件は外部に漏れたのですか」
「場合が場合でしたので、情報の管制はできませんでした。犯人はテロリストに送り込まれた侍女でございました。王太后陛下にお怪我がなくて本当にようございました」
「テロリスト……、」
ミスチアはシドがとっさに工作したのだと察した。
「あの子は、私がこの手で刺した。その感触が手に残っている。私に嘘は吐かなくてよい。 今、事後はどう処理されておる」
「陛下は侍女に刺されたのでございます。ミスチア様はどのような夢を見られておいででしたか? ミスチア様の装束の血は、負傷されたカーレル様の傷口を押さえたために汚れたのでございます。今、お召し替えをお持ちいたしますので。
今、宮廷は大変混乱しております。
お召し替えは侍女ではなく、私がして差し上げてもよろしゅうございますか?」
シドの指示を待つでもなく、ミスチアが目覚めた様子を察した女官の手には、新しいドレスがのった衣装箱があり、シドの後方で控えていた。
「それはテーブルの上に置いて、おまえは下がりなさい。私の指示があるまでだれも入室せぬように」
お久しぶりです。というか、まだ読んでくれる人いるのかしら? 居たら奇跡と思います。