第20話 神意たる玉座 3
王女シェラは、婚礼に臨む化粧の間にある。
手際よく仕度にいそしむ女官らの向こうに、カレン・メイベルが控える。
部屋で立ち働く女官、侍女のうちの半分はラーフェドラス王国より連れてきた。このうちの三分の二は、シェラの暮らしが落ち着き、日々の生活の全てが滞りなく引き継がれた時点で徐々に本国へと帰ってゆくてはずとなっている。そのため皇帝家の者と、王女に随行してきた者とで部屋はあふれかえる。
髪を結い上げられながら、シェラは考える。
新皇帝ティムジン八世リオン・ルイを、頼りないと見るのか、それとも優しいと見るのか。
もう目前に玉座につくというのに、まだ凡庸な少年のような受け答え。政治向きの話が苦手と、年下のシェラに恥じるところもなく告げる。
そう、頼りない。だが、何事にも隠れなく生きる実直さが、シェラには良いと見えた。
気負いも無く、尊大でもなく、身の丈で生きている。
それが、盤石たる国力と政府の上で成り立つものだとしても、まだ十三だというのに、背伸びをして兄と母の間で思い悩んだシェラには、また自分も身の丈で生きて良いのだということが嬉しい。
もちろん、まだ問題は残ったままであるが、この宮廷では、シェラは少女に立ち戻って良いのかもしれないと、ほんの少しだけ期待する。
床に広がる空色の絹の海が、婚礼の時を迎え波打つ。
ノーダヴィダ大公妃に手を引かれ、シェラは歩き出した。
ラーフェドラス王国西宮。
ミスチアは先ほど行われたその華やかな娘の花嫁衣装を見ていた。先ほど中継を見て、今度のは二度目である。大聖堂にて帝国教会の総教主に跪いて婚礼の儀式を執り行う姿に、ミスチアは、遠い昔の自分の幻想を見る。
緊張して右も左もわからず、ただ絨毯の上を、しずしずと歩みだけ進める。
手を引く女子修道会の司教の顔も覚えていない。あの時のアシャの下に隠されたミスチアの凍り付いた笑顔を誰が知るだろう。
嫁ぐ相手が、有名な虐殺事件の首謀者であるという事実に、ミスチアは怖れにとりつかれ、震えていた。
──初夜。
形ばかりの婚礼の儀式のあと、二ヶ月ばかり経った頃であろうか。ミスチアはその日、週に一度ほどの定例となっていた国王グリーダの訪問を受けた。
夕食後、一時間ほど茶を嗜みながら会話をする。王と王妃の唯一の個人的な時間であった。
その頃の国王グリーダは、虐殺事件の事を思わせぬほど穏やかに見え、ミスチアはそれは部下による暴走ではなかったのかと思うほどで、ミスチアにもそれなりに気を遣い、少女にふさわしい話題を見つけてくる。
そしてその配慮に、それなりにミスチアは心を開きかけていた。
国王のその態度が、ミスチアに付いてきたラジサンドラの女官らへの見せかけに過ぎなかったとしても、ミスチアがそれに気づくにはあまりに幼すぎたのだから。
そして、自分をそれなりに大切にしてくれるのだ、と思っていたミスチアは、国王グリーダに云った。今少し、フェイレンリーリアにご配慮のある発言をなさいますよう、お諫めくださいと。
以前、王女付きの女官に、国王陛下には、王女が羽目を外すような振る舞いがあっても、決して何も云ってはならないと忠告を受けていた。
しかし、慎み深く育てられ、持参した装束もすべて賢夫人たるべくにふさわしい落ち着いた物ばかりであったのを、国王の妹であるフェイレンリーリアは田舎臭いと小馬鹿にした。その事が悲しくて、他に頼る者も居なかったミスチアは、国王グリーダに少し意見してもらおうと思ったのだ。
その事をひと言聞くと、急に国王グリーダは眉を顰めた。
「あのような娘の言葉、気に掛けぬがよい。そなたは王妃。王女が王妃より上に序されることはない」
そう云って、席を立った。
「ですが、陛下。皆はフェイレンリーリア様を第一になさいます。むろん、私も王妃として遇してくださいますが、まだ親しくさせていだだけません」
立ち去ろうとする国王をミスチアは引き留め、涙を流してさらに訴えた。頼る者のない不安ゆえに、ミスチアは王に縋るよりなかったのだから。
その時、国王の顔が怒りにゆがむ様子にミスチアは驚愕した。
「名実ともに、王妃であれば問題はなかろう」
国王グリーダは、ミスチアの手を取った。そしてその腕の中に抱き、ドレスの裾をまくり上げ、堅いつぼみを探し当てた。
まだ幼いミスチアは自分が何をされているのかさえ、理解できないほどに驚いていた。
そして引き裂かれるように、無理矢理、真実の王妃とされてしまった。ろくな愛撫さえされず、まさしく裂かれたその痛みは、ミスチアの身体に刻みつけられた。痛みが恐怖となり、交わりが恐怖となり、その日から、ミスチアの心はこの宮廷の闇のなかに捕らわれてしまったのだ。
部屋のモニターに映るのは、喜ばしき娘の婚儀の場面である。
頭ではそれが分かっているが、薬に思考が影響されているミスチアには、その場面におのれの痛みがフラッシュバックする。
「国王陛下がおいでになります。絵画の間へ」
『……陛下が、いらっしゃる』
侍従が告げた一言が、ミスチアの混乱した頭に別の人物の姿を浮かび上がらせる。
『いや、いや。痛いのは嫌』
夜の訪れの際の恐怖の感情がわき起こる。
ミスチアは、片脇に置かれていた果物用のペティナイフを袖に隠した。
「王太后様、カーレル陛下がお待ちですが」
『ああ、カーレルと会うのであった』
ミスチアの意識が突然正気に返る。だが、一方で、ナイフは袖の中に隠さねばならないという考えは消えない。