第1話 願い
宮廷は、いくつかの悲劇と、内外にある緊張と混乱のうちにありながらも、表面上は王女シェラ・エスファナの帝国への嫁入りを控え、つかの間の華やぎを取り戻していた。
国王の執務の合間を見計らい、王女は茶器のワゴンを自ら運んできた。
「今日は王妃様がご公務ですから、私が参りました。一息いれられましたらいかが」
「シェラが入れてくれるお茶なら、どんなに執務が立て込んでいても、ありがたく頂くよ。 忙しいのは当分続くだろうが、そなたに会う時間はもう限られているからな」
国王は、執務机を離れて応接用の椅子に腰掛けた。
侍女が運んで来た茶器に、王女は作法どおりにジャムとドライフルーツを入れ、ポットから茶を注ぎ入れると、国王の前に置いた。
「作法は身についたようだ。
それで、支度は順調に進んでいるのか」
「ええ、お兄様。
明日、大方のものは送ってしまいます。
日々使う物や、身の回りのもの、手放したくないものと、あとは行事に応じた衣類だけです」
この頃、王妃に感化されたのか、帝国風のデザインを取り入れた軽やかなドレスをふわりとさせて、国王の斜め前の椅子に座った。
「本来なら、あれこれと持ち物を吟味し、新調し、国の威儀を示すだけの支度をさせなければならないところだが……」
輿入れの支度は、以前から手配はしていたが、このところの一連の騒ぎと、宮廷内の対立の中で、正直、王女の事にまで行き届かないのが現状だった。
せっかくの帝国との縁である。宗主国の王女として、十分な支度を持たせたいのは、兄として当然の思いだ。
「儀礼用の衣装さえ新調できれば十分です。
輿入れしてから、女子修道会で暮らす際の調度は、叔父上、マルファル公爵グラーノ殿下が手配してくださいましたわ。新調する物は帝国でも手に入りますし、本当に大事な物は、手に馴染んだ物ですし。これらばかりは取り替えがきかないでしょう。
私の使っていた物、六代前のラルシア王妃の宝石箱に、ロザリン・グリンの化粧道具、それから宝石のついたアシャの台を、二点ほど王妃様が持たせてくださいます。
それぞれが価値のある骨董ですけれど、これらは戴いてゆきますね。
そうそう。
ルーサザン公爵家より、衣装の献上がございました」
「まあ、あの家も近しい親族だからな。
領地の経営も順調であれば、それらはありがたく頂戴しよう」
「注文したビーズとレースの花嫁衣装の他に、五点。
手仕事の粋を凝らした出来でありましたので、持参する骨董とこれらは自慢になるかと。
帝国にはない、我が国の誇るべき文化でございます」
「母上の手配した品を断ったと聞いたが、愛娘の嫁入り道具ぐらい、ご自分で手配なさりたかったろうに」
「あら、政治の上では敵同士ですのに、息子としてはお優しいこと。
国情を鑑みれば、王家が手本となって、各貴族に倹約と市民への供給の充実を図るべき時です。母上が新調なさろうとした道具類は、今の王室には不釣り合いのものと思い、お兄様のお祝いを辞退致しますことを理由に、お断りしましたの。
私が十六才の正式な立后の際には、国力を回復なさり、立派なお道具をご用意いただけますわね」
「まったく、おまえと話していると、時々、百戦錬磨の女性政治家と渡り合っている気分になる」
「あら、お金の無い時は、おもちゃを我慢しなきゃいけない事ぐらい、幼児でも知っていますでしょう」
王女は声を立てて笑った。
この聡明な少女の屈託のない笑い声は、つい先ほどまでの執務での緊張を、とても和らげてくれた。
「話は変わるが、シェラ」
「何ですか、お兄様」
「この先、母上とはいずれきちんと立場を整理する時が来るだろう。
国王として、うまく事が運べなければ、多分、国を巻き込むことになる。
その時、おまえはどちらの味方につく」
「まあ、とても十三才の小娘に対しての質問とは思えませんわね。
答えは決まっておりましょうに」
「……母上か?
それとも、あの母上を切り捨てるのか?
母上は、おそらく、ガーレンを表に立てるだろう。
おまえは、実の弟とも敵対する覚悟があるのか。
私は、おまえが私の方針に追従しなくても、別に咎めはしないよ」
「まだお兄様は、私のことが分かりませんか。
私は、今はお兄様の妹で、お母様の娘。
二人とも私の大切な肉親ですし、どちらの味方にも立ちたいと思いますよ。
でも、それが来月でしたら、皇帝としてご即位なさるリオン皇太子殿下のご意志の下、すべての意見は帝国の国意に準じます。
それでも、心の中では、どちらの味方につく事も自由。
女子修道会の礼拝堂で、神々に良き思し召しをと、祈らせていただきますわ」
少女の顔が、かげりを帯びた。
「お覚悟、なさいましたのですか」
「ああ。
こちらに来てくれ」
国王は、ソファを立ち、執務用の机の前に移動した。
「ただ、私のために、一つだけ願いを聞いてくれないか。
血族の情よりも優先するものがあるおまえにしか頼めない事だ。
……ラーフェドラス国王としての余が、アールシャド皇后となるリン=レーゼタークに正式に依頼する事だよ」
国王は、丁寧に装丁された一通の公式文書を机上に置いた。
表紙に国の紋章と国王の紋がある。第一級の公式文書である。
「聖典継承開示書。
次の玉座に座る者の名が記してある」
表紙は、封蝋と金属の封輪の二重の封印が施してある。
「お兄様。
神意が降りたのですか」
「リオン皇太子の即位の式に参列する王妃に、国璽と王印を持たせようと思う。
もちろん、中身は本人には明さない。
その間に、私は母上に一度きちんと話しに行くつもりだ。
事が平和的に進めばいいが、少なくとも、一波乱、二波乱あるだろう。
軍の現状からして、最悪の場合、国を二分する内乱になる危険もある。
私か、母上か、どちらが国の主権を握るかは分からない。
その時に、王妃が王都に入れない事態もあるだろう。
修道会は私の側につくだろうが、もし入国すらできない事態になれば、王妃を保護するよう、リオン皇太子に口添えして欲しい。
そして、最悪の結果が起きた時、この継承開示書を、修道会に提出してくれ。
王妃に頼もうかと思ったけど、母上の側から捏造の疑いを掛けられかねないからね。
嫁ぐ前のおまえの手に渡しておけば、作成された日付の保証にもなる。
そして、次代の王が玉座に就くまで、国璽と王印を行使する権利を、王妃に委託する。 その文書もそれに添付してあるから」
王女は厳粛な顔で、その公式文書を見つめた。
そして、ソファを下り、国王の前に跪礼した。
「陛下、ラーフェドラス王女として、謹んで御下命、賜りましょう。
平和的な解決を、祈念致します」
王女は、立ちあがり、文書を手に取った。
「お兄様のご意志、お守りしますね」
国王に向けられた微笑みからは、先ほどの輝きが失われてしまった。
「大丈夫です、お兄様。
きっと、すべて、うまくいきます。
お兄様は、すばらしい治世を築かれます」
それは、願いだった。
王女としての、妹としての。