第16話 即位の前日 2
即位の日を控えた絢爛たる宮廷外交が行われるなか、主役であるリオン皇太子はシェラ王女の入宮の礼を受ける。
皇帝苑の通路に敷き詰められた色とりどりの花の絨毯の中を、深紅の花嫁衣装のノーダヴィダ王女シェラ・エスファナはしずしずと歩いて行く。女官らを付き従えたその姿は、アールシャド帝国国内に留まらず、アストレーデ圏全域にある程度の時差はあるものの、中継されている。
「あのようなものを着れば、誰でも花のように彩りを纏うもの。あの頃のわらわでさえ、それなりに見えたものゆえ」
その画面を見ながら、ミスチアは午後の茶を嗜んでいた。部屋の隅にしずかに佇むシドは、立礼の姿勢のまま控えている。
ただ二人だけのその部屋にあって、ミスチアはその言葉を誰に投げたものか。
「わらわが歩いた花の道は、茨の道であったけれど、あの子の歩く道も決して安寧ではないのかもしれぬ」
同じ十三才でこのノーダヴィダ王国に嫁いだミスチアは、その頃の事を思い出す。
「ライール卿よ、わらわは心が痛い。我が愛娘、あの子を行かせたくはなかったのに。
王の褥がどのように、わらわを苦しめたのかを思えば、私には出来ないはずであったのに」
シドに向けられた言葉であった。
「リン=レーゼタークにあらせらては、母君様たる王太后陛下のご配慮行き届いておりますれば、必ずやお幸せにお過ごしになられるものと存じます」
シドは跪き、そのように返答した。
「シドよ。
そなたこそ、わらわには珍しい男に見える。
わらわの近くに仕え、わらわと情を交わし、今やそなたの顔色をうかがわぬ者はおらぬというのに、そなたは全く権力とか、蓄財などには興味の無いように振る舞う。常に影のように、目立たぬようにと気を配っているように見える。
わらわの目を盗んで、美しい女官も貴婦人も思いのままであろうに、わらわの他にまったく女に触れる様子もない。
何故に、そのようにわらわに尽くす」
「それが、わたくしの仕事でございます」
女主人の問いに、跪礼の姿勢のままで答える。
「そなたは、幸せを求めぬのか」
「王太后陛下の御側にて務めておりますことが、わたくしの幸せでございます」
ミスチアの愛人として、肌を交わす時さえもその男には自分が無い。決してミスチアのリードばかりではなく、時々年下らしい甘えも見せるのに、そのひとときが終われば全ては演技であったとばかりである。
「わらわは、そなたの本当の心が見たい。それがたとえわらわを裏切るものであったとしても、わらわはそれを愛でたいのだ。
この腕の中に残されたただ一つの愛するものが、わらわの許を離れてしまった」
「なにを仰います。わたくしは、王太后陛下の御心を絶対に裏切ることはありません。神々に誓って、この命、いつでも差し上げましょう」
ミスチアは、シドのその言葉をあざわらう。
「そなたも簡単に、わらわに命を差し出すというか。
奸臣ほど、そのような軽々しい事を申すもの。ならば、そなたも奸臣として、我が許から遠ざけようか」
「リン=ガーレンディラの御心のままに」
「それが出来ぬのがわらわ。わらわには、そなたの腕が必要なのだから。
誰の手をとろうと、その手はどれも信用できぬ。だが、そなたの手ならば、わらわは裏切られても構わぬと思う」
ミスチアは、片手をシドのほうに差し出した。隣に来いという合図である。
「シド、わらわにはもう夢を見ることしか許されておらぬのよ。
カーレルがわらわの摂政権を奪いに来る。そして、修道騎士団のあの二枚舌の男の死について問いに来る。
カーレルが王権を握れば、あの子はきっと知るだろう。自身が賢王とばかりに信じている前王の所行を。そして所行を真似て、あの子はきっと間違いを犯す」
シドは、ミスチアのソファに掛け、女主人に腕を回して抱きしめる。
「陛下は、それほど愚かな方ではございません。ミスチア様の血も流れております。人の苦しみを、きっと良くご存じでございます」
その言葉を、ミスチアはまたあざ笑う。そして女主人は、シドに麻薬を求めた。
「ミスチア様。もうなりません。いかに副作用の少ない物とはいえ、それには限りがございます。じきにお心を壊しておしまいになる。そうなったら、わたくしはどうなります。あなた様より他に、頼るべき方の無い身でございますのに」
「そなたが保身を云うか。わらわを愛していると云え」
「この上も無く、尊敬し、敬愛しております」
「わらわは、そなたにも愛されぬのか」
ミスチアの目に酩酊の光が宿る。禁断症状による混乱が生じているのだろう。
「ミスチア様は愛されておいでです。幼い日に出会われたあの方に、きっと今も変わらず愛されておいでです」
シドは、女主人の肩を抱き、そっと目を閉じる。
もう戻れぬほどに、ミスチアは麻薬に侵されていた。
魂を蝕まれ、幻覚が現れるのも時間の問題なのだろう。
この宮廷にその麻薬をもたらした者。シドはその者の手先としてこの宮廷に送られた。
この国の王権を望む勢力は、いまだに野心を抱いているのだろうか。
あの事件より一度も連絡を取っていない。もう放置するつもりなのだろうか。
シドはもう動きようが無い。このまま、ミスチアの悪夢とともに墜ちていく、覚悟はもう出来ているのだから。