第10話 いま、きみを慕う
婚礼の出立の前夜、国王は王妃の部屋を訪れた。
趣味の悪い習慣である監視カメラなど、寝室や居間からはすでに取り払われている。
王妃の侍女らは、前国王が亡くなった後に時を置かずして宮廷を去った妾妃パリシアの下で働いていた者たちで占められていた。
パリシア妃は、元々は女子修道会の司教であったが、前国王に望まれ還俗した。当時、まだ王妃だったミスチアと競った間柄で、古くから仕える侍女らは、今もってミスチア王太后の側近には強いライバルを抱く。よって、先日監視カメラの撤去を命じられた際には、喜んでこれに応じた。
「ねえ、ライラ」
心も体も、お互いのものとなった今、二人だけの時間にカーレルが幾分王妃に対して甘えた声で呼びかけるのは無理もない事だった。
王妃として迎えたのは、まだお互い子供の頃。
これまで、二人はお互いを友達として閉じられた宮廷で過ごし、今は国政のよき理解者だった。国王が政治力を回復するまでは、まだ当面王妃一人が対外的な公務を行うことになるが、今や二人は一人も同じ。公務と政治の場で離れて行動する時も、些細な情報でお互いの意志がわかった。
二人、重なってソファに身を預け、口づけしたい気持ちや、ふれあいたい気持ちを焦らしたまま、静かに寄り添っている時間が幸せだった。
そして、国王は柔らかな王妃の髪をそっと撫で、ある決意を口にする。
「指、貸して」
「え、ええ」
王妃が腕を上げると、国王はその手を取り、優しくキスをした。
そして、自分の王印を外し、王妃の指に嵌めた。
「なにを…」
王妃は驚いて手を引き、その指に嵌められた物をしげしげと見た。
「これは、王印。なぜ私に」
「私は、母上に摂政を降りていただくよう説得しなければならないんだ。
それが、総教主猊下との取り決めで。
だから、不測の事態に備える必要がある。
もし、私がその場で監禁されたとしても、王印がなければ国としての決定事項の採決を下すことはできない。
ルーサザン公が、私を王としてしかるべき場所に出すために払った犠牲は判るだろう。そして、私が、王として国の全権を掌握する際にも、当然それと同じ犠牲が払われるとみてしかるべきだし、私はそれに備えなくちゃいけない。
そしてね……」
国王は、テーブルの上に置いてある持参していた包みを示した。
「私が所有している宝石と証券のすべてだ。
何事も無ければ、このまま持って帰っておいで」
王妃は身を起こし、国王を見た。
「何事も無ければ、とは、何事かあるのですか」
「母上が私の拘束に成功すれば、きみは入国できなくなる。銀行も凍結されるだろう。
リオン皇太子は良い方だから当面の面倒は見て下さるだろうし、叔父上もおいでなので生活には困らないだろう。
でも、一国の王妃として、それでは立ちゆかないだろう。
だから、預けるのだ。
私の全財産なのだから、必ず持って帰ってきてくれよ」
王妃の顔がこわばった。
「なら、私、残ります」
悲壮な顔をしているのを、国王は抱き寄せた。
「だめだ。その時は、僕を助けにきてくれよ」
「だって、私、あなたと共に苦労を分かちあうと……」
国王は、口づけて言葉を遮った。
「捕らわれのお姫様を助ける勇者が苦労しないとでもいうのかい」
ひとこと云って、またキスをする。
王妃は、国王の腕の中で背中に回した手を引き寄せる。
愛してる……と囁かれて、ふわりと全身の力が抜ける。
かげろうの羽根のようなナイトドレス姿の王妃をそっと抱き上げて、ベッドに運ぶ間も惜しみ頬を寄せて慈しむ。
王でも王妃でもない、ただ十七才の少年と十六才の少女となって夜の中に包まれてゆく。
焦がれる熱と恋しさに流されて、ただ二人だけで、その心に、暗い不安の染みを広げながら。