序
ひらひらと木の幹から、花びらが落ちる小道を歩くのが好きだった。
ラジサンドラの王都ラシェラの町外れで暮らしていた。古家の暮らす館としては、まったく似つかわしくない規模の敷地だが、それでも小さなミスチアにとっては、暮らすに充分な邸宅と思えた。
こんもりとした木々のしげみは、裏山と呼ぶには狭すぎるが、その小道に降る花びらが髪に絡みつき、細く、ふんわりとした軽すぎるミスチアの髪を、花の妖精のように彩った。
ミスチアの家は、王家に連なる古家の血を引く伯爵家とはいえ、従家としての序列も下位であり、当主も宮廷活動にあまり熱心ではない。年長の兄が継承する代には、もう貴爵家に退くことはほぼ決定していた。
宮廷での立場に腐心するでもなく、安寧に自分の趣味に生きる父に、娘を古家の当主夫人として嫁がせるほどの教育を施す熱意は無く、さりとて、周囲がその血統を持つ姫君を一般市民の少女のように育てることを許すわけもなく、父親が妥協の産物として考え出したのは、王族付きの上級女官として世に出すべく、聖ルーリア女子修道会に預ける事だった。
聖ルーリア女子修道会は、現在は信仰の場というよりは、離縁されたり未亡人となった古家の奥方の、その後の生活の場であり、古家同志で行われる血統の保存を目的とした政略結婚の仲立ちをする機関としての性質が大きい。
むろん、一般市民の子女の入会も認めており、慈善活動や貧者の救済の側面も持つが、上層部の活動は、政略結婚を通じて、各国に影響力を持つことが主眼として置かれた。
聖アムルテパン修道会が、国家の干渉を受けず、アストレーデ聖典の継承権の承認をもって各国に干渉しているのとちょうど対になる形である。
「姫君、ちょっとお待ちくださいってば」
一族のひとりの少年、ミスチアには、その序列はよくわからないが、ミスチアよりは格下の家の子弟だったように思う。
「また、こんなに髪に花びらが散っています」
「いいじゃない。お花、綺麗よ」
「すぐにしおれて汚くなってしまいますよ」
少年は、ミスチアの髪に降りかかった花びらを払った。
「ああ、そうだ、これ」
ポケットから出てきたのは、綺麗な小さな袋だった。
「開けますよ」
少年は自分でその袋を開けた。
綺麗なレースのリボンだった。
花びらと同じ薄い色のリボン。
少年は、絡みやすいミスチア髪を手櫛で器用にほどき、そのリボンで髪を飾った。
「修道院に行ってしまうから。
女官になるのでしょう?」
「たぶん、お父様がそう仰っているから。
でも、修道院を出て女官になったら、お嫁さんになるのは自由なの。
私は古家の血をひく娘だから、相手が古家であろうと、市民であろうと、私が嫁ぐ先は、私が決めていいのよ」
大人達の話しからの聞きかじりのことを、そのまま少年に語る。
庭のオブジェに填め込まれたガラスに、ミスチアは自分の姿を映してみた。
柔らかで、明るいその髪に、春の女王のティアラのように、リボンが輝いている。
「ありがとう」
ミスチアは云った。
「修道院に入っても、僕の事を忘れないで」
この二ヶ月、知り合ってから、毎日この裏庭で遊んだその少年は云った。
少年が帰ってしまい、ミスチアが家に入ると、広間には普段はろくに会ったこともない上位の伯父、叔母が集まっていた。
そして、宮廷装束の女官と、そしてひときわ美しい装束を着た婦人がいる。
「ミスチア、王妃様がお越しです。跪礼を」
ミスチアはその場に膝を付き、頭を垂れた。
「まあ、ミスチア姫。
可愛いらしい子だこと。
よくお顔を見せて」
王妃は、ミスチアの側に来て、顔を上げさせた。
「国王陛下が、姫をお望みです。
貴方を王家の王女として、我が家にお迎えしたいのですが」
ラジサンドラ国王には、王女が一人、王子が二人いた。
「ラーフェドラス王国より、皇太子妃候補を立てて欲しいと、我が王家に申し入れがございましたが、我が王女は知ってのとおり、生まれてよりこなた、一日たりとも健康であった事がありません。さりとて、ラーフェドラス王国との同盟を組む機会を逃すことも好ましくないと思われ、一族を見渡したところ、妙齢の姫がここに居ると聞き、赴きました。
そなたには、生まれた家と父上と離れて暮らして頂かねばなりません。
幼いそなたには、いろいろ大変な事もありましょうが、聞けば、そなたは近々修道院に修養に入る予定であったとか。
どうか、王宮に入ってもらえぬものかと」
王妃は、ミスチアにそう語りかけた。
問われているのはミスチアだが、まだ六才の身では、選択する資格など与えられていなかった。
修道院に行くと定められていた日に、ミスチアは国王の養女として、王女の身分で王宮に入った。華美を嫌う風潮の国王の嗜好に合わせ、少年から贈られた綺麗なリボンは、宝石箱の奥に仕舞われ、柔らかいその髪は、落ち着いた色のリボンが控えめに飾られていた。
アストレーデの古い伝承で、女性の髪に男が触れるのは、求愛。
そして、その髪を櫛で解き、結うのを手伝うのは、求婚。
ミスチアがその事を知ったのは、王宮に入り、教師より文字を習ってからであった。
「修道院に入っても、僕の事を忘れないで」
この二ヶ月、知り合ってから、毎日この裏庭で遊んだその少年は云った。
「リン=ガーレンディラ」
静かな声で呼びかけられた。
「お時間でございます。お目覚めを」
天蓋の外に跪く青年の姿を、ベッドの中から眺めた。
「おまえは、私の事を忘れぬか」
「はい、王太后陛下」
「誓えるか」
「はい、この命にかえても」
幼い日に遊んだ少年の名を、ずっと思い出せずにいる。
いつから忘れたのだろう。
いや、一度も覚えたことは無かったのかもしれぬ。
なのに、あの優しさに縋り付かねば、この宮廷は耐えられなかった。
今は天蓋越しに跪くその男との、夜の睦言の中で呼びかけた名はどこの誰だろう。
ミスチアの心は枯れ果てている。
なのに、恨みの火だけは激しく燃えさかる。
なぜに亡き王がこれほど憎いのかわからない。
「リン=ガーレンディラ、議会の開始時刻がせまっております。
本日も国王陛下がご臨席になります。
…それとも、本日もご気分が晴れませんか」
ミスチアは上体を起こした。
それを見た男は、天蓋を開き、ミスチアの肩にシルクのガウンを掛けた。
「ライール卿、今日はまいりましょう。
緋の宮中服を用意なさい」
「御意、陛下」
男は跪礼を捧げると、一旦退出した。