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9 ある文豪の生命についての考察


 今回は、ロシアの文豪、トルストイの『人生論』を取り上げてみたい。道徳について語るならこの本は絶対に外せない。


 この作品は、『生命』をテーマとした論文である。一見、宗教色の強い内容かと思いきや、ジャン=ジャック・ルソー、イマヌエル・カントなどの西洋哲学を踏まえた、トルストイの哲学書なのである。ということはつまり、この二人の語る内容をすっ飛ばして語りはじめることになるわけで、最低限この二人の本を読んでいないと、内容がイマイチ理解できないかもしれない。


 それは置いておいて、作品のメッセージを要約すると、こんな感じだ。


――世の中には、『生命』という言葉を知ったように語る者がいる。しかし、この世に『生命』について知っている人間など一人もいない。人が『生命』だと思っているもの。それはすべて幻影である――


 初見でこれがどういう意味かわかったら、あなたはおそらく苦労人だ。下手したら、前に述べたような絶望を経験しているひとかもしれない。


 人が生命を感じるとき、それは幸福の瞬間であろう。その幸福とはいったい何だろうか? 


――裕福な家に生まれ、お父さんお母さんは美男美女。鏡を見ればもちろん、自分もうっとりするほど美しい。一族は歴史ある由緒正しい家柄。誕生日には甘いケーキ。お正月にはたくさんのお年玉。そして頭がずば抜けて良く、学校ではいつも優等生。東京大学在学中にオックスフォード大学への留学を決意。イギリスへ渡る。大学の寮で、冴えない、でも可愛らしい男子学生と親友になる。すると、彼はロスチャイルド家の次男だった! 「兄さんにはかなわないよ」と彼はいつも自信なさげ、そして彼とわたしのサクセスストーリーがはじまるのであった――《十年後》――わたしと彼は結婚し、第一子を儲け――《六十年後》――わたしはたくさんの家族に囲まれ、励まされ、この世を去った――


 妄想特急が暴走する前にここで止めて置く。


 これこそが人生である。すばらしきかな人生! そう思って疑いえない。これが生命じゃないって、どうかしているぜ!


 そう思ったあなた。あなたはこんな人生を送りたいだろうか?


 できれば? 本当に?


 わたしが描いたのはステレオタイプな幸福というやつだ。主人公はその幸福に沿って、いわゆる世間が言う、『幸福な暮らし』を演じていただけ、と見ることができないだろうか? 実は彼女がまったく幸福を感じていないとしたら? トルストイの『アンナ・カレーニナ』には、そんな女性の末路がどういったものか、描かれる。


 ドストエフスキーの作品、『地下室の手記』で、こんな話がある。これもざっくり要約。


――たとえば幸せのリストがあったとして、それを順にこなしていけば、あなたは幸せだと[科学的に]わかっていたとして…………そんなもん糞くらえだ! 俺はピアノの鍵盤じゃない! オルゴールのピンじゃない!――


『科学的』という言葉。この作品が描かれたくらいの時代から徐々に文学作品に増えだした言葉である。科学の発展、産業革命、そして戦争の時代へと進んでいくなかで、人間を機械か何かのように考える、――勝手に言葉をつくってしまえば――、『科学万能主義』とでもいうような考え方が広まりつつあったことが当時の作品の中から伺える。トルストイの『人生論』もそうした状況を危惧して書かれたもののはずである。


 人の生活は動物や虫に例えられることがある。たとえば、蟻ならば、巣で働く蟻の二割は怠けており、人間の会社も同じで、本当に働いている社員は八割、残りの二割は何もしていない。というようなものだ。


 この場合、観察者は蟻の研究者であって、経営学の研究者ではない。だから、観察者がわかるのは、蟻のことだけのはずである。なのに、どうしてそれが人間に応用できると考えてしまうのだろうか。


 これはカント大先生の力を借りなければ説明できない。


『純粋理性批判』によれば、理性の欲求として、人は最高原因ないしは最高存在者を求めるそうだ。それは、神、魂の不死、自由。


 たしかに、何か揺るぎないもの一つあれば、それを信じて心の平穏を保つことができそうだ。


 ただし、前に述べたように、人間はそれを追い求めるが、到達はできないのである。神、魂の不死、自由は、空から降ってきたり、道端に転がっているようなものではない。


 要するに、経験できないのである。経験できないものは、科学の対象にならない。もし現代の科学者だったら、「それは、あるともないとも言えません」と言うだろう。


 なのに、『生命』となると、急に人は、「ある」と答えたくなる。自分があると信じているからだ。


「それでは証拠をだしてみろ」と言われると、急に蟻んこの話がはじまるわけだ。


 人はこういった抽象的なことを説明するとき、過去に経験した外的な感覚に頼ろうとする。そして、丁度良いものを探す。しかし、その時点で、自分という、もっとも身近な生命から離れてしまっているのである。自分が蟻んこだとしても同じことである。


 これをトルストイは、『中心を定めずに円を描くようなものだ』という。


「どこへいったんだい、蟻んこ君」というわけだ。


 カントっぽく言いなおせば、『生命は物それ自体とかかわる。現象とではない』ということ。


 だから、『生命がある』とか、『生命はない』とかを、わかったように語ったり、人間を蟻にたとえるような人がいたら、そいつは、詐欺師だと思ってもらって構わない。高い壺を売りつけられる前に逃げるのが得策だ。


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