8 1~7まとめ
前に述べたように、理性は合理性に逆らうことができる。合理性は自然に由来する。自然法の代わりに、社会契約が、人々の思想に自由をもたらした。その自由を前提として道徳がある。道徳は、理念である。だから経験できない。できるのは経験した後で、「こうだったのかな……」と、特徴づけることだけ。理念としてあるだけで、目で見て確かめることができない。だから証明できるものではない。なぜなら、それは、私たちがいる現象の世界には存在しないから。わたしたちは現象を通してしか、目で見たり触ったりできない。しかし、わたしたちの頭の中には、たしかに可能性としてではあるが、自由や道徳というものはある。なぜなら、体の外からやってくる合理性と、時には共存し、時には逆らうことができる能力が、わたしたちには備わっているからだ。これがなければ、人は、人でいられないのだ。
合理的に物事を考えるのが人間なのではなく、必要ならその合理性に逆らうことができるのが、人間なのである。それは人間に備わった理性による働きである。
道徳とは、人間らしさとは何だろうか、という永遠の問いであり、他者から教わったり押し付けられたりではなく、自ら(無限定に)考え続けることでしか、それ自体に近づけない、ということだ。
小さい頃、初詣で誰かから、自分で考えた願い事を口に出してはいけないよ、と言われた思い出がある。それは、理念を経験の世界に持ち出してはいけないよ、理念を経験の世界に持ち出してしまったら、それは妄想になってしまうからね、という意味だったのかもしれない。つまり、願い事は理念だということ。誰かに考えてもらうものではない。このように考察すると偶像崇拝が駄目な宗教があることも、至って普通のことのように思えてくる。
要するに、誰からも何も言われず、ゲーム機がほしいけど親にも言わず、我慢している子供がいたら、非常に人間らしいということである。逆に、思ったことを全部しゃべってしまうようなら、どんなに頭が良くても、動物らしく見えてしまうものである。だから、こんなことを書いているわたしも、その一人だということだ。