7 寺を掃除する僧侶が、落ち葉を残す理由
高校生の頃、わたしは何故か、『きりーつ、がっしょー、れー』の仏教系の高校へ通っていた。高校一年生の林間学校は、比叡山延暦寺。そこでありがたーいお話を聞かせてもらったようだったが、話の内容はほとんど覚えていない。もうちょっと大人になってから行けば、そんなところに行けるありがたみの一つや二つ感じただろうが、その当時のわたしは、参考書以外まともに読んだことのない子供。まさに豚に真珠だった。
ただ、ひとつだけ、そこで教えて貰ったことが心に残っている。
それは林間学校で、寺の掃除を手伝ったときのことである。箒で落ち葉をはいて、塵取りへと運ぶ。それだけのことだ。眠い目をこすりながら、ぼんやりと落ち葉をはいていた。
すると、一人のお坊さんが、わたしのところへやってきてこう言った。
「落ち葉を全部取ってはいけないよ。木の下に落ち葉が落ちていないのは不自然だからね。程よくでいいんだよ」と。
わたしはそのお坊さんに「わかりました」と言ったが、その意図は、その当時のわたしにはさっぱりわからなかった。とりあえず、お坊さんの見様見真似で程よく落ち葉を残して掃除を続けた。
しかし、引率の先生はゴミ袋いっぱいに落ち葉を詰め込んで、わたしがせっかく考えて残した落ち葉をガサガサとゴミ袋に詰め込んでしまうのだった。
そして、「すっきりしたね!」と言う。
「先生、そうじゃないんだってよ」と、わたしが言っても、そのせっかちな先生は、
「え? なんで? きれいになったからいいじゃない?」と涼しい顔をした。
このとき、わたしはお坊さんの顔を見れなかった。
きっと悲しい顔をしていたに違いない。
この時お坊さんは、おそらく『人間には理性があるのだ』ということを教えたかったのだろう、とわたしは解釈している。文化財とは、建造物の美しさだけではない。そこに付随するすべてが財産であり、芸術なのだ。それは掃除の仕方ひとつとってもそう、理性によって作り上げられた思想が不可欠なのである。
今のわたしなら、この意味を特徴づけて、《こういうことだったのかな》と解釈ができる。最近は便利だから、ネットで調べればすぐに出てくる……と思いきやまったく載っていない。
もしかしたら口伝えで広まっているだけなのかもしれないが、京都か奈良のお坊さんからも同じようなことを聞いた気がするので、たぶんお坊さんたちからしたら、一般的なことなのかもしれない。
わたしがこのことを考えるのに思い浮かべたのが、ドストエフスキーと同じ時期に活躍していた作家、レフ・ニコラエヴィチ・トルストイだ。彼は老子のロシア語翻訳にも携わっているので、仏教の知識を小説に取り入れていても不思議ではない。
彼の作品で描かれるロシアは、時代が時代ということもあって、ドストエフスキーと同様、たしかに暗いのだが、全体として暗闇に、一本の蠟燭が灯っているような、そんな印象を受ける。
彼の小説はとにかく魅力的な登場人物が多い。主人公だけでなく、脇役まで、それぞれの宗教や思想がある。一概に『ヨーロッパ=キリスト教』と言えないということが、トルストイを読むと理解できる。冗談ではなく本当に、ロシアがどこにあるかわからなくなるくらい宗教や思想が、人によってバラバラなのだ。ロシアの小説が日本でうけるのは、このごちゃごちゃと交じり合った思想のせいかもしれない。
トルストイの作品、『アンナ・カレーニナ』に、こんな話がある。
『良い地主は、畑にある岩や木をなるべくそのままにしておく』というものだ。
これがどういう意味か、登場人物の青年は、はじめ理解できないが、物語の最後に、忠告を信じて切り倒さなかった木が、雷から自分の妻と子供を守るのである。つまり忠告した人は、「古い土地にある木は、そこにあるだけで何かしら意味がある」と言いたかったのだ。
木が一本もない耕地に嵐がくれば、雷が落ちてくる、というのは、あとから言われれば、「なるほど」と気がつくことができる。しかし、答えが伏せられた状態では、まったく予想がつかないことだってある。
そんなことも気にせず、麦をたくさん植えたいからと、古い土地の岩をどかし、木を切り倒してしまうと、伏せられた答えが突如としてあらわれたときに雷に打たれる、というわけだ。
つまりトルストイは、人間には、答えはわからなくても、どういうわけか、危険を察知する力がある、と小説の中で述べているのである。それが理性の働きである。トルストイ自身も農事をやっていたので、百姓の「なんでかわからんが、やめたほうがいいんでねーの」を経験しているのかもしれない。