6 寄生する欺瞞
テレビをつけ、作り置きしたパスタを電子レンジで温め、その間にリビングのテレビをつける。すると毎日のように心が萎縮するような事件が、液晶画面の向こうに見えてくる。思わず「うわぁぁ……」と声が出て、体が固まって、眉間にしわを寄せる。本当に……嫌なら見なければ良いのに。
欺瞞に欺瞞を重ねた先に何が待つか。文学作品では良く描かれるテーマだ。
これを表現していた作家を挙げろと言われたら、ロシアの文豪。フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーは必ず入ってくるだろう。
彼は作家として活躍する傍ら、政治活動へとのめり込んでいき、いろいろあって死刑寸前までいった人物だ。彼の小説を読むと、相当ひどい目にあったのだろう、ということが良く分かる。
ドストエフスキーは、偽善者を描くのが本当に上手な作家である。薄暗く、ジメジメした雰囲気が特徴で、初めて読む人は、だいたいこれに嫌悪感を覚えてしまう。
作品の舞台となる時代の社会情勢は非常に悪い。特にその当時のロシアで、女性がいかに過酷な環境で生きていたのかが作品のところどころに描写される。イメージとしては、どこかの良い家柄のお嬢様が借金まみれになり、家族と離れ離れになる。行く当てもなく、ぼろぼろの服で街を彷徨い、仕事を紹介してやると近寄ってきたのは娼館のおかみ。生きるためにそこで働き始め、しばらくはそれで暮らす。しかし、そのあと年をとったら、そこにすら居場所がなくなって、娼館を出て行き、路上生活者として生きるしかなくなる。生きるために男を見つける。子供を身ごもるが、体力がなくなり、息絶える。水はけの悪い墓地で、まるで、水中に投げ込まれるみたいに泥の中へ、棺おけごと投げ込まれ、沈んでいく……
一方、男性といえば、基本何かをこじらせているナルシストだ。たとえば、『罪と罰』に出てくるラスコーリニコフという男は、自分のことをナポレオンだと思っており、『一の悪行は百の善行によって償われる』という思想を持っている。また、『カラマーゾフの兄弟』に出てくる次男は、『大審問官』という、聖書のパロディを作って、『結局、人間は誰かが管理してやらねばならないのだ』と僧侶の弟に披露してみせ、愕然とさせる。
ドストエフスキーはおそらく、こういう危険な人をよくみてきたのであろう。そして、そういった人たちが、実際にどんな劣等感を抱えているのかも、良く知っていた。
たとえば、一番わかり易いのが、『カラマーゾフの兄弟』の次男――イワンであれば、自分が虐待を受けていた過去から一気に飛躍して、『社会が悪い』という方向にいってしまう。そして、そんな虐待をするような親はすべて皆殺しにすべきだ、と言い放つ。
しかし、よく読んでみると、彼は卑劣な父親を殺すことを正当化するために、すべての親を巻き添えにしようとしている、ということがわかる。本当に迷惑な話だ。
ギリシャ神話に出てくるナルキッソスという美少年をご存知だろうか?
彼のことを一目見れば、男女関係なく惚れてしまう。ただ彼は、他人を愛することができず、出会う者を次から次へと不幸にしてしまうのだ。たとえば、愛と美と性の女神アプロディーテから贈り物を受け取れば、その贈り物を侮辱し女神を激怒させてしまったり、彼に惚れているアメイニアスを自殺に追い込んだり、さらに、森の精霊を悲しませ、姿のない木霊にしてしまう。そして、そんな彼にはふさわしい最期が待つ。彼は湖の水を飲もうと、水面を見つめると、そこに映った美少年に惚れて、動けなくなりそのまま死んでしまう。その美少年は自分だったという落ちだ。
罪と罰のラスコーリニコフも、カラマーゾフの兄弟のイワンも、最後、自分の思想が巡り巡って自分のところへ帰ってきた瞬間、ナルキッソスのような状態になり、気がおかしくなってしまうのだ。
他人に突きつけた拳銃が、いつの間にか自分に向くような話は、小説のなかだけではない。現実でも、このような事件は起きているし、これからもおきるだろう。具体的にどの事件がどう、という話は控えるが……
イマヌエル・カントの純粋理性批判によれば、こういった虚言は、人が理性を持っているから起こるのだという。
たとえば、親は自分の子供が、他人から見てどんなに悪者だろうと、あらゆる自然法則を度外視して、自分の子供を、本当は善人なのだ、と信じることは可能だろうし、信心深い人は、どんなに他人に神を否定されようとも、神を信じることができる。――前に、無限定と呼んだもの――ラスコーリニコフを絶望から救うソーニャという女性がまさにこれだ。
なぜなら、頭の中にしかない理性は、自然法則には支配されておらず、まったく自由であるからである。
歩いている人がいきなり立ち止まっても、そこには因果性はなく、あくまで他人は、『なにか忘れものでもしたのだろう』と、それらしく――あたかも、それが因果性を持つかのように――特徴づけることでしか、説明することができない。
しかし、ラスコーリニコフやイワンの場合は、そんな自由な理性まで、自然法則で支配してやろうとする思想を抱いている。その根底にあるのは、両者とも劣等感であり、それが欲望を満たすための合理的な考え、また、その考えを強化するナルシシズムを生み出している。
前回も述べたように、こういった欺瞞を取り除くのは非常に難しく、他人に向いてしまった時は、さらに厄介なことを引き起こす。
先ほど、『巡り巡って』と言ったが、まさにその言葉の通り、欺瞞は他人も欺瞞に陥れ、連鎖するのである。そして雪だるま式に巨大化した欺瞞の塊は最後、自分を押しつぶす。つまり、自分にとって合理的な思想が、自分の自由を奪うのだ。
もしかしたら、ドストエフスキーは、ラスコーリニコフやイワンのような政治活動家に出会い、利用されてしまっていたのかもしれない。そうでなければ、あんな偽善者は描けないだろう。
あなたのそばにも、きっといる。ほら、すぐ、うしろに……
――プルルルル、プルルルル、ガチャ。
「もしもし、あたし、●●●さん。もう少しでお家に着くからね……」