4 知らないうちに、他人に拳銃を突きつけている?
経済において、必ずといって良いほど格差の問題は取り上げられる。この問題を詳細なデータに基づいて研究した書物が、トマス・ピケティの『21世紀の資本』である。この本は間違いなく、カール・マルクスの資本論やサイモン・クズネッツのクズネッツ曲線と並んで、歴史に残るだろう。
2013~2014年頃、『r≻g』という不等式が発表され、世界中を震撼させた。これを簡単に言い直すと『金持ちは、より金持ちに。貧乏人は、より貧乏に』が資本主義の動学である、というのだ。この事実は、資本主義が真の平等を生み出すと信じていた人たちにとっては、アリストテレスが云う様な、『人は支配するものと支配されるものに別れる』のように聞こえたことだろう。
だからと言って今更、社会主義や共産主義が良いというわけでもない。ただ、資本主義は、それよりもましだっただけだ、ということに過ぎなかったのだ。
社会主義とは、皆で決まった分だけ働けば、皆、十分に暮らしていけるのだ、という理念。
共産主義とは、決まった分だけ生産し、必要以上に生産しなければ、皆、あとは好きなことをして暮らせばいい、という理念である。
社会主義も共産主義も理念だけ見れば、なるほど、と思えるものだ。しかし、問題はそれを実現するための手段にある。
たとえば、両方とも『決まった』という言葉がでてくる。この『決まった』を、いったい誰が、いつ、どこで決めるのであろうか、ということが問題だ。
両方とも、一部のエリートの意志で牛耳られる社会。これを全体主義という。ちなみに、村ぐらいの規模であれば、こういった社会はわりと存在する。まぁ、それくらいなら、『おらこんなむらいやだ!』と脱出すればいいだけだが、国家ともなればそうもいかない。
歴史の教科書を開いてみれば、その悲惨な結末が載っているだろう。どうしてそうなったのかはいまだによく分かっていないのだが、分からない理由は何となく想像がつく。要するに、『上が決めたこと』だからである。
従わなければどうなるか? これを知るのに丁度良い小説がある。それはジョージ・オーウェルの『1984年』。テレスクリーンと呼ばれるカメラ付きのスクリーンが、常に家の中で光っていて、消すことが許されない。不審な行動と判断された場合は、反逆者として拘束され、愛情省と呼ばれる施設へ連れて行かれる。そこで忠誠心を文字通り、叩き込まれるのである。そうなりたくなければ、何も考えず、ただただ言われたことだけをすればいい。そして、戦争は平和、自由は屈従、無知は力、という矛盾した思想を信じて生きていく……
『上が決めたこと』というキーワードを聞いて、ギクッとした読者はいるだろうか。勤め人なら一度は口にしたり、思い浮かべてしまいそうな、この言葉。
実は、ほとんどの集団は程度は違えど、全体主義に近い形になってしまっているのが実状である。もし読者が会社の経営者で、「これではいかん!」と、良かれと思って、年功序列を廃止し、能力主義や成果報酬を取り入れても、無駄である。そうやって権力者が勝手に決めて、それが導入されていくのが、全体主義だからである。最後には、下々の者は上に従えとなり、老子が最悪な組織の管理方法だとする、『飴と鞭』をやってしまう。こうすると、人は動物のようになってしまい、何も考えなくなる。学校や会社が息苦しく感じる人は、もしかしたらこれのせいかもしれない。
『地獄への道は善意で舗装されている』というドイツの有名なことわざにもあるように、社会主義も、共産主義も、資本主義も、結局のところ、地獄への片道切符というわけだ。違うのは地獄へ向かう速度の違いだけ。つまり、ほとんどの人は、こういった社会の管理下にあるのかもしれない。もし、そんな集団の中に24時間365日いたら、道徳なんてきっと学べないだろう。
道徳の根底になければならないものは、個々人の自由な意志である。たとえば、孤独に身を置いているような状況を想像してもらえばわかりやすいだろうか。自分一人の空間、誰にも邪魔されない時間の中、考え事をしているような。さらに、その個々人の自由な意志のなかで、集団の共通の利害となるもの、これがルソーの社会契約における一般意志。共通でないものは特殊意志。特殊意志が集団となれば、全体意志である。
わかりやすくなるように、観光バスの帰り道に例えてみる。
楽しかった旅行の帰り道。バスには山田、加藤、佐藤の三人が座席にいる。この三人は、バスの終点まで乗っていくつもりだとする。この場合、その終点駅からそれぞれ歩くか、他の乗り物で家に帰る、という負担を強いられる代わりに、バスに乗って我慢してさえいれば、三人が自力で帰れるところまでは行ってくれる。これが一般意志。
山田さんが席を立ちあがって、運転手のところへ行き、「あ、あの……ちょっとトイレに行きたいんですぅ」と言って、近くの公園で停車するようにお願いしたとする。これが特殊意志。周りの人は、まぁ、仕方ないか、と許せる範囲かもしれないが、そうでない場合ももちろんある。
次の瞬間、いきなり加藤さんが、鞄から拳銃を取り出して、「俺んちの近くまで行けやぁぁ……早く帰りたいんじゃぁぁ……」と、バスジャックして強制的に行先を変更しようとしたとする。この時点では特殊意志。皆が殺されたくないと従えば、それは全体意志だ。
社会契約を犯した場合、自然法が適用される。つまり正当防衛というわけだ。だから、もし佐藤さんが、拳銃がただのエアガンだと見抜いて、上着を盾にして、一発体当たりし、加藤さんを病院送りにしたとしても、逮捕されるのは加藤さんのほうで、佐藤さんは赦される可能性が高いというわけだ。
ここまで極端な状況は稀だが、一般意志と全体意志はまったくちがうものなのに、見分けがつかないことがある。悪意ならまだ区別がつきそうだが、善意の場合は厄介だ。
相手に拳銃をつきつけない、という意味で、知っておいたほうが良い教訓は一つだけである。
『人は他人に、条件を与えることしかできない。条件を取り去ることができるのは、その人自身だけである』
もし逆の立場なら、思いっきり体当たりしてやると良いだろう。なぜなら自然法は、より力のあるものに有利な法だからである。力のある者はより力のある者によって倒され、破滅するのが自然だからである。年老いたライオンが、若いライオンに獲物を奪われるように。
念のために言っておくが、体当たりはあくまで冗談である。逃げるのも戦略の内。その時は、誰が何と言おうと、自分の選択を肯定すればいいだけだ。
『旦那、辛抱はいっときだが、人生は百年だよ』レフ・トルストイ、戦争と平和より。