3 君主における道徳と服従の末路
今回は、マキアヴェリ『君主論』の内容を基に、道徳について、書いてみる。
この本は、その名の通り、あらゆる君主について研究したものだが、ビジネス書に近い感覚で読む事ができる。型だけもらって、現代に置き換えただけでも、読みごたえはありそうだ。
マキアヴェリは云う。
『君主は、どこまでも慈悲深く、信義に厚く、裏表なく、人情味にあふれ、宗教心にあつい人物に見えるように、気を配らなくてはいけない』と。
つまり、道徳が何たるものかを、わかっているかのように振る舞うことが、集団を率いる上では、重要である、ということである。――もちろん、本人がどういう人間であるかは別として。
人は外見で、他人を判断する。これを逆手にとって行動するわけだ。徳の高そうな人に、『みんな仲良くしましょう』なんて言われた日には、おとなしく従わなければならないような気持ちにさせられる。そのあとで、悔しい思いをして苦虫を噛み黙っているか、そのまま気がつかずに騙され、――もしくは、腹いせに、騙されているとわかった上で、――他人にも詭弁を押し付け、欺瞞の連鎖を生み出すか、どれかであろう。なぜなら、大多数の人々は、君主の外見に騙されてしまうから、自分一人がその詭弁に気がついたとしても、多数決で敗北してしまうのだ。このような方法で気がつかぬうちに服従させられてしまった集団に属す場合、その集団は、道徳とはなんたるかを、君主の命令に従うことと心得てしまうのだ。
一つの国をまとめ上げようと思ったら、すくなくとも数十万人規模で、これを行ったことになる。人の噂も七十五日というが、それが本当であれば、たった一度だけ良い噂を流しさえすれば、あとは宮殿に引きこもっていても、半永久的に、その君主はすばらしい人格者として、歴史に名を刻まれることであろう。
しかしそれは、豊かな時代が続けばの話だ。マズローの欲求五段階説によれば、衣食住が満足されなければ、忠誠心は養えない。特に、食料がつきた場合、その不満は君主へ向くか、外国へ向くかのどちらかだ。こうなってしまえば、もう暴走した船と同じだ。どちらに舵を切ろうと、事故は免れない。そんなことにならないように、メディチ家の人々は、策をめぐらしたことであろう。
しかしその後、メディチ家の血は途絶えてしまった。
彼らは権力を維持するために、合理的な手段を思いついた。親戚同士を結婚させて、権力や財産が分散しないようにしたのである。これがどういう結果をもたらすかは、医者でなくても察しが付くだろう。
さて、今回は、『合理的』という言葉が出てきた。これは、道徳とは正反対の意味としてとらえることができる概念である。
マキアヴェリは云う。
『君主は、狼が出たときはライオンのようになり、罠があるときはキツネになれ』と。
ルソーの社会契約論に当てはめてみると、合理的な行動とは、どうやら自然に由来するようである。
扉の開いた檻の中にいる犬が、檻の隙間から、檻の外にある餌を食べようと牙を剥き出しにしているような、そんなイメージである。そこには、理性のかけらもない。ルソーは社会契約論のなかで、君主論の内容にマキアヴェリの密かな企みがあったのではないかと述べている。なぜなら、頭がよく誠実な彼が自由を欲しないわけがないからだ。宮廷にとって道徳とは、いい笑い者だということを人々に示した、と同時に、王家を滅亡に荷担させた可能性がある。だからこの本は、歴史に残る名著なのである。役に立つからといって、無批判に内容を鵜呑みにすると必ず痛い目にあうものだ。
人間は、合理性に支配されると、動物となる。
動物は、自分で考えて、まったく新しいものを生み出すことは、まずない。
大好きなのは、向日葵の種だけである。