23 美しい話には裏がある
前回のエッセイで、人が何かものを認識するとき、そこには美的なものが伴うことを説明した。今回は、それをもっと発展させてみる。
わたし自身がよく聞くのは、――「わたし、きれいじゃないから」「わたし可愛くないから……」というように容姿に自信がない、あるいはそれを装いたいような状況にある人は、このような言い回しを使う。
この判断は、いったいどのようなものを基準にしているのであろうか。他にも、ダサいなどの言葉がよく使われるが、この言葉の判断基準とは何か?
最初に言ってしまえば、美は、認識ではないため、概念ではない。しかも、快適ともまた異なる性質をもっている。痛みや快楽を美しいとか、かわいいとか言うひとは、まずいないだろう。
この鮮やかな空の青色が美しいとか、見ていてほれぼれするとか、そういうものは、自分の主観の中で持っている判断を、他人にも共有し、賛同をもらう要請から生まれる。要請されるとはつまり、他人に「わたしは美しいでしょ?」と主張するようなことである。だたし、それは本人の意志とはまったく関係なく、美しいなにかを見た人の主観の中でしか起こらない。
一般に流行とは、自然に発生するものではなく、人工的に作られたものである。社会情勢や今までの歴史の蓄積や、将来の動向よりも、その時々で、より賛同の得られたものが、流行するだけである。だから、それに自分が賛同するとは限らないし、新聞を開いても、流行が追えるわけではない。むしろ、新聞に載った時には、流行が去りかけている頃合いである。
SNSが広まったことで、こういった賛同を求める――あるいは求められる――機会は、格段に増えている。美しいと思われるものであればなんでもいい。たとえば色、服、鞄、政治的な主張、会社の広告、さらに何かしらの美談。これらはすべて美的な判断である。
ここで注意してほしいのは、道徳的な判断と美談を混同してはならないということである。道徳的な判断は自己の意志からはじまるが、美談は自己の意志とはまったく関係がない。つまり流行を追い続けることは、自己の意志に反し続ける恐れがある、ということだ。キルケゴールから言わせれば、これは一種の絶望である。
そして、これをうまく利用するのがマーケティングである。こう言った賛同は、経営学では、アダムスミスの言葉を借りて、共感と呼ばれ、これが現代でもっとも手軽に、お金儲けができるビジネスモデルになっている。もちろん、うまくいくかどうかは別だが、居酒屋を始めるよりは、リスクを抑えられるはずだ。
経営学で有名なドラッカーの本などを見ると、作者不明の三人の石切り工の話が紹介されていて、三人目の職人が一番前向きで良いという風に紹介されている。
簡単に紹介すると、旅人が三人の石切り工の職人に、「なにをしているんですか?」と簡単な質問をしていくという話で、一人目は、「みればわかるだろ! 石を積んでるんだよ、もっとうまくやっているやつがいるのに……暑い日も寒い日もこんなことを――腰や手が痛い」と言う。
二人目は、「大きな壁をつくっている。これで家族を養っているんだ」と言う。
三人目は、「大聖堂をつくっている。ここで多くの人が救われるんだ」と言う。
というような話で、三人目の人が一番モチベーションが高くて、積極的に仕事にかかわってくれるという話だ。
ここでひねくれ者の私が言いたいのは、三人目の人は、他人から見て優れているように見えるし、彼自身も額に汗を流し充実している日々をすごしているように見えるだろう、そして彼の仕事ぶりは、皆から共感され、他の石切り工も同じように、大聖堂をつくるという目的に向かってまっすぐ進むのであろう。
しかし、カントやキルケゴールを読んでみると、これは絶望でしかない。合目的性というものは、頭の中にしかない規則であり、お目当てのものが、現実の世界に存在するとは限らないのである。
たとえば、大聖堂がついに完成したとしよう。そしてついに、さぁ、大聖堂に祈りにおいでとなったとき、大聖堂に一人も参拝者が来なかったり、若い女の子たちが来ると思ったら、野郎や老人ばかりしかこなくて、がっかりするとか、貧乏人ばかりで経営が立ち行かないとか、あるいは急な仕様変更で大型ショッピングモールになってしまうとか、人間なら、そういう矛盾は当たり前に起こりうる。本音と建前というものは、別に、当人が意識しなくとも、その現実に直面したときに、はっと気がつくものだ。そのとき、三人目の石切り工は、裏切られた気分になるだろう。彼は、真の目的に向かうか、目的を失う。もし、彼の真の目的に無理やり、現実を強制しようとしたとき、それは、ただの支配欲へと変わる。このとき、三人目の石切り工の思い描いていた救われるはずの人々は、ただの妄想に過ぎないことが証明される。
一人目の石切り工も同様に、「もっとうまくやっている奴ら」という嫉妬に、こんどは支配されている。人間の暮らしの一瞬を切り取って見せれば、そのように見えることもあるだろう。彼はそういった人々を攻撃することに快感を得て存在意義を感じていることに気がついていない。見たところ奴隷でもない、仕事がつらいなら、そのうまくやっている奴らとやらにお願いして、仕事を紹介してもらうなりすればいい。しかし、彼は良い仕事があると教えてやっても、何かと理由をつけてきっと断るだろう。そしてさらに、自分を惨めに見せるだろう。なぜなら、嫉妬によって支えられている自己が保てなくなるからである。彼はその自己を守るために、攻撃に打って出るかもしれない。
残りの二人目の石切り工は、三人目の中で、一番幸福だと思われる。壁をつくることも、家族を養うという目的も、彼だけの力で達成できることだからである。たとえ壁が大風で崩れ落ちようと、自分がつくった部分は勝手がわかっているから、建て直すのははやい。家族とやらが、どんな輩であったとしても養うこと自体は可能である。彼はあまり絶望していないのである。
幸福とは、不幸な状態が比較的少ないことである、とルソーは、『エミール』で云っている。もし、大聖堂が、サグラダファミリアだとしたら、そつなく自分の範疇をこなす人のほうが、夢ばかり語って手が止まっている者や、嫉妬に駆られて愚痴ばかり吐く者より、どう考えても役に立つはずである。
ちなみに、ドラッカーは晩年、キルケゴールの著作を読んで、考えを改めて、ホスピタリティという考え方に至ったそうである。自分を愛せない人は、他人を愛せないのである。




