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22 認識と美


 人が何かを認識するとき、そこにはかならず対象がある。


 たとえば、あなたがいま、喉がすごく渇いているとする。そして、『何か飲みたい』と思ったとする。そのときに人は対象を持つ。この対象のことは目的と言い換えても良い。


 次に人は、炭酸飲料、珈琲、紅茶、日本茶、その他いろいろな種類の飲み物を思い浮かべる。これを哲学では、実体とか、表象とか言ったりする。


 さらに次に人は、たとえば、それらが手に入りそうな場所を探す。自動販売機、コンビニ、スーパーなど、手に入れられそうな方法を考え行動に移す。


 そして、あなたはコンビニへ行って、珈琲を買う。


 このような考え方をITの世界では、オブジェクト指向と呼んだりする。このような人の認識プロセスを基にコードを記述していくことで、本当は何行も書かなければならないようなプログラム記述を、『珈琲・コンビニ』と書くだけでプログラムを動かすことができたりする。


 哲学書を読んでいると、まったく関係ないと思っていた分野の元ネタらしきものを発見することがある。思えば、西洋の哲学は、カントを通りカントを抜けるといわれるくらいだから、もしかしたら、日本で読まれているような海外翻訳もののほとんどは、カントを抜けてきた思想から派生してできたものなのかもしれない。それは置いておいて。


 西洋哲学で、人は、この原理でものを認識している、とされている。この原理に従えば、人は対象(目的)がないと、何も認識できない、ということになる。


 もし読者の中で時間がある人がいれば、簡単な実験をやってみるといい。


 まず最初に、自分の家の中にある(押入れの中などしまわれているものは含まない)赤いものを一通り思い出して紙に書き出してみる。


 それが終わったら、今度はスマートフォンのカメラ機能を使って家の中を回るのだが、その際に、あなたはひたすら赤色のものを探す。


 戻ってきたら、カメラ機能を止めて保存し、とりあえず、いま覚えている赤いものを全部思い出して紙に書いてみる。


 そして、カメラで保存した動画で答え合わせをする。


 そうするとおそらく読者は前者よりも後者の方がたくさん赤いものを書き出すことができるはずである。


 要するに、前者では対象を持っていない状態だったため、ものをほとんど認識できていなかったが、後者の場合では、対象を持った状態であったため、より多くのものを認識できたということである。


 人はものを現象を通して見ることができるが、単に現象だけだと、人はほとんど何も認識できないのである。あるいは、現象とは客観のことであり、客観だけでは、人は何も認識できないともいう。


 さらに人は、見慣れた映画やはじめて見た絵画などを目の前にしたとき、映画の内容とは別に、ある程度の快や不快を感じたりする。これをカントは『美』と呼ぶ。


 カントは、何かの認識(または概念)には必ず快不快が伴っており、片方がなくなるだけで人はものを認識できなくなる、と言う。


 しかし、この美というものは、誰でもご存知のように、なかなかの曲者で、なにかそれらしい法則や原理や規則があるわけではない。


 たとえば、ギリシャ神話に出てくるヴィーナスひとつとってみても、ある人には何か学問的で格式の高いものに見えたり、またある人には、単なる石像や絵画に見えたり、さらにまたある人には、如何わしいものになったりする。


 もし今あげた三名に、ヴィーナスの誕生などの絵を見せて感想文を書かせ、それを三人以外の誰かに、ヴィーナスの誕生の感想であることをうまく隠して読ませたら、はたして、その人は、三人が同じものを見て書いたと気がつくだろうか。あるいは、そのヴィーナスの誕生という作品名を答えることができるであろうか? おそらく可能性は極めて低いだろう。


 なぜなら、三名がもっている対象はそれぞれ異なる上に、認識のさいにあらわれる快不快も、その場に居合わせてみないと現れてこない、つかみどころのないものだからである。


 ところでわたしは、日本にあるような倫理観はカント哲学でいう、この『美』なのではないかと思っている。たとえば、よく言われるような『空気』という言葉も、カントでいう美と同じように、その場に居合わせないとわからない感覚である。今は正直どうかわからないが、半世紀以上前の日本であれば、手を動かして技術を磨き、信仰に入っていく職人気質なあたりが、とくにそれと感じるし、剣道などで礼に始まり礼に終わるといったような形式も、勝敗よりも美的なものを重視しているとわたしは思う。


 そういえば、『16 9~15のまとめ』で、倫理という言葉をわざわざ道徳という言葉と分けて、現象のほうに置いたのは、こういった感覚があったからである。もし倫理という言葉を道徳と同じ位置にしてしまうと、神と自己との関係の倫理――要するに、キリスト教的な自己規律(discipline)になってしまうからである。また、自己を忘れて、あたかも神と自己を同一視してしまうような自己と解釈されたくはないと思った次第である。あくまで、神や魂の不死、自由は、たとえば、良いこと、正しいことをしたいと思った時(良心)の条件であって、その条件そのものを自己の意志とするのは、ただの思い上がりと言えよう。


 卵か鶏かのように聞こえるかもしれないが、西洋哲学のことをそのまま書いてしまうと、日本人が一般的に持っている感覚とあまりに乖離してしまうのではないかと思って、このようにした。要するに、ちょくちょく自己流にアレンジしているのである。


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