20 西洋でなぜ酒に酔ってはいけないのか
西洋(≒キリスト教圏)で酒に酔って我を忘れるのがなぜ良くないのか、説明できる人はいるだろうか。なんとなく、厳しい宗派の人とそうじゃない人がいて、厳しくない宗派の人は許されてる、とか、わたし自身そんなぐらいの認識であった。
でもちゃんと哲学的な理由が、キェルケゴールの『死に至る病』で説明されているので、今回は、これを紹介してみたい。
かなりキリスト教の匂いはするが、わたし含めそうでない人も、知っておくと役に立つかもしれない。たとえば、西洋の人と、酒の席なんかで話すときに、知らず知らずのうちに、西洋にあって日本にない感覚で、西洋の人を不快な気持ちにさせてしまうことを、少なくともこれに限っては防ぐことができると思う。
宗教をまったく意識していないつもりでも、日本人が正月に神社や寺にいかないと、しっくりこないように、西洋の人も、そういうのがあるとわたしは思う。どんなに自分はリベラルだと思っていても、生まれ育った地域がキリスト教圏なら、少なくともキリスト教の形式では暮らしているはずだからだ。
たとえば、「神は死んだ」で有名な、ニーチェみたいな人も、けっきょく、キリスト教における神を想定してから批判的に哲学を構築していく必要が、どうしてもある。だから、「神は死んだ」と云うためには、聖書の内容をかなり知っていないといけない。人気の哲学者だが、ちゃんと理解しようと思うとかなりハードルが高い……。――ちょっと脱線すると、「神は死んだ」は、「あなたが理性(≒前提、たとえば、わたしが今言ったハードル)だと思っているものは、実はないんですよ」という意味だ。だからニーチェから読みたい人は、ニーチェから読むべきだ。
話を戻して、酒に呑まれてはいけない理由を理解するためには、絶望についての理解が必要だ。
キェルケゴールは、絶望は罪である、もっというと、罪とは、『後悔』のことであると云う。さらに、時間の経過とともに、過去の後悔を忘れると、それから、より深い後悔の状態に入っていき、新しい後悔を積み重ね、それが一貫性にまで到達すること。
しかも、たちの悪いことに、新しい後悔を積み重ねる人は、自分の後悔の一貫性に気がついていないから、忘れて前向きになったつもりでいても、実は前よりも、深い海に沈んでいるのだそうだ。
人が絶望していない状態がどのような状態かというと、それはたとえば、善行に対して一貫性をもつというような場合である。おそらく、カント哲学ならこれを『道徳法則と適意の一致(神聖性)』と呼ぶものである。頭の中の善と、頭の外の快が一致しうる可能性を見続けること、目指し続けることを指す。たとえば科学者なら、ある研究で、自分の生涯で達成できる限界はどこまでなのかを見定めたうえで研究を行い、限界より先は次の世代に託すようなことである。この研究がひとつの区切りへと到達することを直観的に次の世代にも示してみせること、これが絶望していない状態である。トルストイの人生論で、死んでもこの世界との関係は消えないという話を紹介したが、この場合は、科学者の研究の足跡が、この世界との関係ということになる。この世界との関係は、科学者が亡くなった後も、神聖性を目指して無限の進行を続けるということである。
それなのに、あるとき、その研究を妨害されるようなことが起こったら、その科学者はどう思うだろうか。科学者はきっと、「どうか、この研究の邪魔をしないでくれ!」と言うだろう。なぜなら、その妨害によって、科学者の研究という名の一貫性は失われてしまう恐れがあるからだ。
これが信仰にも言える。酒を飲むこと自体は悪くない。しかし、何か――たとえば酒――に依存することで、自分の人生の一貫性――人生への集中力と言ってもいい――が失われることを、何よりも恐れよ、とキェルケゴールは云っているのである。その一貫性はいとも容易く失われる。それもたった一回の過ちで。
この罪(後悔)の質の悪いところは、同じ罪で他人を誘惑したり、強要したりするようになることである。自分と同じ罪を他人にも背負わせて、自分の仲間をつくろうとするのである。これを悪魔の囁きとキェルケゴールは呼ぶ。
たとえば、大宴会場で酒に酔ったおっさんが泥酔しながらみんなに酒を注いで回るような図は、カオス以外の何者でもないわけだ。酒に強くなっても罪は消えない。それは流砂である。彼は流砂に足を突っ込んだ状態で自分が流砂にいることも忘れ、気持ちよさそうな表情で、他人に捕まっているのだ。




