19 絶望から救われるときが一番つらい
前回に引き続き、絶望について書こうと思う。今回は、小説、映画、ドラマ、漫画、アニメが好きな読者なら、興味を持ってもらえる内容になっていると思う。なぜなら今回の絶望は、それらに登場する主人公たちの絶望だからだ。
たとえば、なろう系の主人公たちは、さまざまな理由で異世界へと旅立ち、新たな人生を謳歌する。そして過去の絶望を振り返り、「あのときのわたしは絶望していた」というようなことを言う。
しかしキェルケゴールからしてみれば、これは絶望である。
絶望とは虹のように時間の系列のなかにある現象ではなく、人間が思い浮かべる理念である。この理念は、自己(魂、考える私)を喰い続ける。しかし自己も抽象的な理念であるが故に、なくなることがなく、それにもかかわらず喰われ続けるのである。しかも時間の系列にない理念は、忘却することはできても、過去に過ぎ去ることがない。
「過去の自分は絶望していた」と告白することは、あたかも理念が時間の系列にあるかのような言い方である。しかし絶望は過去になることはない。絶望はその人の精神そのものだからである。よって、この絶望は内向的なものである。
この絶望の第一段階は、若い人が、スポーツ選手になりたいと願う時、いっぱい勉強して優秀な科学者や弁護士になりたいと願う時、青春ものの映画やアニメの主人公のように異性にモテる自分になりたいと願う時、あの人のような人間になりたいと願う時――無論、これは絶望である。
経験的に知ったもの――地上的なるもの――になろうとする絶望である。これは変身願望のことである。姿形を変えて、それになりきろうとする。しかし、それは中身のない信仰であるため、その人が救われることはない。なぜなら、その人は、憧れの人になることはできないのだから。手を合わせて神に祈るふりをするようなものである。この絶望はけして若い人だけのものではない。魂(考える私)という理念は、時間の系列とは関係のないところにあるからである。
第二の段階は、他者を見下す絶望である。――わたしの若い頃はこうだったと過去に遡るようなことである。精神が自己自身から離れていくことによる。この絶望は、第一段階の進化系である。美化された過去――地上的なるあるもの――にすがり過ぎるせいで、その奇麗なものと他人との差異が目につくようになる。この絶望は他人を見下す上に、孤独を求めようとする絶望である。前回のエッセイで紹介した支配欲の絶望者は、孤独には耐えられないが、こちらの絶望は、逆に孤独を求めようとする。そうして、自分の部屋から、支配欲の絶望者を眺めて口ばかりで頭が空っぽな奴だ、などと見下す。この孤独の絶望は、見下すものに、あえて弱みを打ち明ける。しかしこれは傲慢さからくるものである。あえて弱みを見せて、それを相手に否定してほしいのである。この絶望は、年齢を重ねるほど強くなるが、若者も例外ではない。
第三の段階は、第一段階または第二段階から救われることによる絶望である。人は絶望の中に一人でいるときは、それほどつらくはないものだ。それよりも、本当につらいのは、他者によって絶望から救い出されるときである。たとえば、若い頃にサラリーマンになってたまるか、と何か夢を追って活動していたが、借金を抱えて、夢を諦めざる負えなくなった。それから就職活動をして、なんとか仕事を見つけることができ、こんどは仕事に熱中するようになる、そして借金を返せるようになった――このときに人は、絶望するのである。その人は永遠なるものを失っている。その人は、信仰を失ってしまったのである。小説、映画、ドラマ、漫画、アニメなどのコンテンツに対して、『~ロス』と呼ぶものは、この絶望に該当する。そしてまた新たなコンテンツに出会えば、絶望を繰り返す無限ループにはまる。この絶望を繰り返すことで、どんどん自分が嫌になってくるのである。
これらの絶望の危険なところは、自分自身(肉体)をあたかも精神(魂、考える私)が他人のように扱ってしまうことである。自分は自分でない誰かになろうとすることで、自分の身体がぼろぼろになっていたとしても気にしない。リストカットなどの自傷行為や、酒などに泥酔して自分の手足がどこにあるかもわからなくなるような状態のことである。気がついたら病室のベッドで目覚めて、手足がなくなっていても、「いいや、これはわたしの手足じゃない」と言い張るような状況である。そんな人を哀れな目で見て、「あなたは事故にあった――できることなら何でも言って」と優しく語り掛けるのは、もしかしたら、すごく残酷なことかもしれない。より患者の絶望をほじくりだすような行為だからである。さらに、助けようとしてくれた人が、読者にとって、「こいつだけはいけ好かない」と決めつけた相手だったらどうだろうか? そんなこと、助ける他人はお構いなしだ。
わたしの友人に、介護ホームで働いていた人がいる。彼が云うには、現役時代に責任の重たい仕事をしていた人――特に、男性――ほど、若い人に介護されるのが嫌なのだそうだ。それよりも、年代が近い方がましだと思うらしい。データを集めて分析したわけではないから、ほんとうにそうなのかはわからないが、キェルケゴールの話に通じるところがある気がする。なんでも自分勝手に手を貸してしまう人は、それが支配欲からきていないか、自分で自分をよく批判してみるべきだろう。社会的に弱い立場にいる人を助けるようなボランティアをやるなら、特に注意すべきだ。感謝の言葉やご褒美を期待してはいけない。それは支配欲だ。ボランティアの話をすると、「お金の代わりに何か貰えるんでしょ?」とか、「満足感が得られるんでしょ?」とか、「就活で使えるからでしょ?」とか、言う人がいるが、それはあまりにも無知だとわたしは思う。わたしはごみ拾いのボランティアで集めた空き缶を、空き缶拾いのおじさんに「俺の領分だ」と言われて盗られたことがあるし、友人は炊き出しで味噌汁をぶっかけられた。要するに感謝するどころか、むしろ救われることによって絶望はさらに深まるか、攻撃性を持つのである。それで満足感を覚えるのはそうとうな変態である。思い出したくもないトラウマだ。
そういえば中学時代に、わたしのクラスで人形と散歩している人を見た、という噂が広まったことがある。それをたまたま耳にした国語の先生は、「見るな」と言った。小林秀雄の『人形』をはじめて知ったのは、たしかそのときだった。絶望している人に、「話せば楽になる」などと言う人がいるが、他人の絶望をのぞきこむことが如何に危険なことか、よく知っておくべきだ。恩ではなく、殺意が返ってくることだってあるのだから。




