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18 支配欲のたどり着く先は窒息死


 もしある人が「わたしは絶望している」と悟ったとしても、それで絶望を認識したことにはならない。その絶望は、氷山の一角であり、奥深くまで根をはっている。その絶望を取り去ってしまえば、あなたは消えてしまう。絶望とは、自分そのものなのであるから。


 今回は、セイレーン・キェルケゴールの『死に至る病』を取り上げて解説してみたい。


 道徳という言葉は、宗教であれば信仰という言葉に置き換えられる。そして、その逆が絶望である。絶望は、信仰がない状態を指す。


 人は理性を持っている。デカルトによれば記号や言語を操る能力、カントによれば前提を置く能力のことである。もし理性をもつ人間が、前提をもたない場合、無限定に続く弁証論に陥る。自分の頭の中にある問いが、「なんで? どうして?」と問いかけ続け、頭痛の種となり自己を苦しめる。たとえば、答えのない議論を必要以上に好む人間がいるが、キェルケゴールからすればそれは、ただの絶望である。


 絶望の原因は、無精神性である。無精神性とは、自分に精神がないことに気がつかないか、あるいは、他人に精神を求めようとしてしまうことによって自分以外の何かに依存する病である。


 自分の絶望に気がついていない場合、もしくは、自分の絶望に気がついているが放棄しようとしない場合、自らの命を軽視するようになる。そして、自分の命を軽視すれば、他人の命も軽視するようになる。さらに自分が何をしているのかわからず、意識が朦朧もうろうとした状態で生きている、ということである。たとえば、何か良くないことを、仕事の忙しさで忘れようとしたり、何かに絶望したときに、あたかもその原因が、理性の外にあるように思うこと。今日眠って、明日になれば、どうにかなっているだろう、と考えるようなことは外部への依存である。子供が怖いもの知らずだったり、昆虫などで残酷な遊びを考えつくのは、自分が絶望していることに気がついていないからだ。怪我をして、世界で一番不幸なのは、自分だと言わんばかりに両親に訴えるのは、精神を親に求めるからだ。


 他人へ精神を求める場合、人間は体系的統一を欲する。体系的統一とは、最高原因へと向かう道筋の立った論理である。たとえば、三段論法をつかって、『人間は死ぬ。わたしは人間である。よってわたしは死ぬ』という命題をつくったとする。この場合の最高原因は、『人間は死ぬ』である。しかし、この論理は仮説の域を出ることがないため、形式は正しいが、命題自体は絶対に正しいわけではない。現実、わたしはまだ生きており、あいにくまだ死ぬ予定もない。他人に精神を求める者は、この矛盾を解決しろという、困難な仕事を強要する。現実存在に絶対性を求めるのである。どれくらい困難な要求かというと、現実の世界から数字の「1」と同じものを探してきなさい、と言うくらいの要求である。あるいは、神、魂、自由を現実存在からさがしてこいというくらい無謀な仕事である。


 凶悪な加害者の思考を、この形式にあてはめてみることもできる。たとえば、ある事件の加害者の思考を三段論法で表すと、おそらくこういう感じになる。


 まず大前提としてそのある事件の加害者は、『自分は社会の役に立ちたい』という理念があると仮定する。この理念自体はいたって普通だ。しかし、小前提として、『わたしは社会の役に立ちたいのに、役に立たない人間の世話をしている。このままでは社会の役に立てない』というような論理ができてしまったとする。その場合、結論としては、『社会から役に立たない人間から役に立つ人間を解放しよう』というような思考回路が出来上がる。


 内容がおかしいことは、読者にもわかってもらえると思うが、三段論法の形式そのものは――数学の公式のように――正しいため、あたかも筋の通った論理に見えてしまう人もいる。しかも厄介なのは、三段論法で述べたことは、一応、矛盾がないのである。


 これを反証するためには哲学が必要だ。そこで着目するのが、小前提の部分である。おそらく加害者となった人間にとっては、『役に立たない人間』という存在が、目の前に現象となって現れていたのだと思う。そして加害者は、現象そのものを物事の本質だと考えてしまった。


『社会に役に立たない人間』と『社会に役に立つ人間』という区別は、抽象的な線引きなだけで、現実存在ではない。しかも、現象はつねに反証可能性にさらされているため、加害者がたとえ、ある人のことを、『社会の役に立たない人間』だと決めつけたとしても、それはただの現象であるため、反証可能なのである。


 エッセイのはじめに、物それ自体(または物自体)のことを説明したが、加害者の論理は、ただの現象を、物それ自体として考えてしまっているのである。それは虹という現象を見て、水蒸気や光を無視するようなことである。


 そして次に疑うべきなのは、大前提である。そもそも加害者の頭にある社会とは、どこにあるのであろうか。人間を社会の手段として見ていることがそもそもの誤りである。


 社会とは抽象的な概念である。そして実質は人間でなくてはならない。人間のいないところに社会はない。人間にとって社会とは手段である。日本が嫌なら出て行くことだってできる。たとえ身体がまったく動かせないとしても、社会契約の中では、この社会で生きているということだけで――たとえまったく使わないとしても――権利をもっているのだから、社会契約を反故にすることに正当性はない。なぜなら、社会は人間の手段だからである。


 レ・ミゼラブルで、アンジョルラスが社会とは何かを説明してくれている。自由、平等、友愛である。自由とは、道徳――自己の立法――である。平等とは、自己のいくらかを――労働や倫理などのために――譲ること。そして友愛は、万人の保護である。(万人が)集合するすべての主権の結合、それが社会である。一部の主権でできた集合体は、万人を迫害する。


 加害者の心理を、キェルケゴールは、必然性と呼ぶ。何もかもを自分の期待したとおりに動かそうとする支配欲である。支配欲の人間は、可能性がない。可能性とは、想像力のことである。想像力が欠乏しているため、面白みのない人間となる。


 たとえば、誰かから侮辱を受けたとき、想像力がある人間は、何もしない代わりに想像の中で仕返しをして気を紛らわすことができる。しかし想像力が欠けていれば、それを経験で補うことになるため、それが攻撃性として現れるわけである。その場合の仕返しをしたい相手とは、まぶたの裏に映る抽象的な映像でしかない。目を瞑り、夢を見ながら街を彷徨う夢遊病患者――目の前に人参をぶら下げられた馬のように、誰に何と言われようと走り続けるのである。


 この病は、窒息死を招く。これは精神的な意味での窒息である。すべてを必然性に変える力は、童話に出てくるような悲劇である。『死に至る病』では、有名なイソップ寓話の、『金の呪い』がとりあげられている。呪いにかかった王様は、触れたものをすべて金――という必然――に変えてしまうことで、食べ物まで金に変わってしまい、食事も一切とれなくなる。それに付け加え、キェルケゴールは、さらに自分の呼吸すら必然に変わり、最後には、呼吸ができなくなると述べている。


 魂――考える私――にとって一番近くにいる他人は自分の肉体――他人から見た私――である。肉体は意識しなくとも心臓を動かし、呼吸をし、食物を血液にかえて、栄養を届ける。それをすべて支配するということは、雑音が鳴り響く部屋で、音程を外さぬように歌うようなものだ。自分の人生という歌に集中できなくなる。その結果、人は「死にたい」とつぶやくようになる。いわゆる死にたい病だ。


 人間から可能性を奪えば、それはただの動物だけが残る。動物は生まれる前から目的が決まっており、自然の摂理という必然に従って生きて死ぬ。完璧な人生とは、野生に帰ることを意味する。それは理性のある人間にとって、死と同義語である。人間が完璧でないのは、理性的だからである。理性のある人間だから絶望するのである。しかし絶望がなければ、新たな可能性もないのである。


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