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17 二種類の感情的人間


 いつでもどこでもニュートラルな状態を保てれば、どんなに良いだろう。でも、いくら本を読んで学んだとしても現実の自分は、思うようにはいかないものだ。


 カントの実践理性批判では、人が感情によって動く場合、大きく分けて二種類の人間がいるとある。それは、神話説と経験論である。今回はこの二つを自分なりに嚙み砕いて説明してみたい。


 神話説とは、占いのことだと思えば理解しやすいだろう。自分が幸福あるいは、不幸になったのは、朝のニュースで言っていたラッキーアイテムを買わなかったからだ、もしくは、きっと神様が自分に罰を与えたのだ、と考えるようなことである。この絶望は、わたしも子供のころに覚えがある。生まれてはじめて家で飼った金魚が死んだとき、子供の頃のわたしは、神の国を思い浮かべたものだ。家の狭い水槽ではなく、無限に続く海のような場所で、のびのびと泳いでいく姿を思い浮かべて、それを信じたことがある。ある程度大きくなって、父親が亡くなったときも、まったく意識しているつもりはなかったのだが、夢の中で病院にいる父親の姿が浮かんで、寝ている途中で涙が出たこともある。夏に肝試しをして、怖かったり楽しかったのも、神話説のおかげだろう。この絶望は、さほど危険ではない。カントは、これを、『魂の休息所』と呼んでいる。考えることを一旦、置いておくという働きがある。しかし絶望には変わりない。幸福の判断基準は、快か不快である。快や不快が、善なのか悪なのかは、その人の都合の良いように入れ替わる。ある意味、自分で自分を洗脳しているような状態と言えるかもしれない。万が一、このような絶望を見かけたら、気をつけなくてはならない。それは、魂の休息所から無理やり出すようなことをしてはならない、ということだ。たとえば、占いを本当に信じている人に対し、統計学などを用いて、占いの内容がいかにあてにならないかを証明してみせるようなことは、絶対にしてはならない。なぜかと言えば、それは、その人にとって、神の国がないということを示すのと同等だからだ。いわゆる占いが、キリスト教や仏道と違うところは、神を経験に求めることにある。その経験が実際に起こった時、快や不快を判定し、それに対して、善あるいは悪というパーツを付与するのである。それがすべて嘘だと、その人が思ってしまった場合、それはカフカの『変身』の主人公と同じような状態となる。最悪の場合は、自殺してしまう恐れがある。


 次に経験論。こちらは子供よりも、大人の方が陥りやすい。特に、学校を卒業したあと、読書をしなくなってしまったような人、あるいは、いわゆるどうでも良いことを突き詰めて考える習慣がまったくない人、これは要注意である。


 経験論とは、現象だけを見て良し悪しを決める結果論と同じである。現象になってからでないと判定ができないので、トロッコ問題に陥りやすい。トロッコ問題を避ける唯一の方法は、傾向性に流されないように、道徳――自身の立法――をもつことだ。危険が訪れる前に、危険を予想して、自分自身に立法を課すのである。早く目的地に着きたいからと、最短ルートを選択するような合理性は、時として、人に災難を引き起こす。前にも紹介したが、トルストイの『アンナ・カレーニナ』にでてくる、麦をたくさん収穫したいからといって、畑の岩や木を不用意に動かしてはならない、という話がある。古い迷信だと思って、岩や木をどかしてしまうと、雷に打たれるのである。架空の話だと侮るなかれ、そんなことは実際に起きている。日本には、たとえば、『●●、●●へ行くなら、棺桶を背負って行け』という詩がある。気になるなら、ネットで調べてみるといいが、かなりきつい内容なので、覚悟を持ってから見ることをおすすめする。これを迷信だと思っていた人も、当時はいただろう。でも、そうではなかった。コロナ感染拡大だって、誰が予想できただろうか。後付けで、あれこれ言う専門家はいるだろうが、そんなことは人間の認識能力を超えている。わたしは単純に、一番の原因は、国同士の距離が実質的に縮まったことだろう、と思っている。今から飛行機に乗れば、明日の今頃には地球の反対側に立っている、それが当たり前になると、どのようなことが起きるのか、今なら誰でもわかることである。


 このことは、人間の合理性は完全ではないということを示唆している。というのは、自然が完璧に循環しているのに対し、人間は理性を自然に逆らうために用いているからである。わたしがいまこのエッセイを書いているのだって、読者がこのエッセイを読んでいるのだって、稼ぎになるわけでも、食べるためでも、為になるわけでも、気持ち良くなるわけでも、何でもないのだから、自然に逆らっていると言えるのである。


 人間を集団の一部分としてとらえると、人間は経験論でしか動いていないように見えることだろう。特に、日本語はあいまいなもので、道徳と倫理という言葉が『モラル』という言葉にまとめられている上に定義も人によるため、経験論でモラルを捉えている人は、少なくないだろう。より西洋の英語やドイツ語に近い意味での、モラルとは、カントが云うような道徳<moral>のことである。ほとんど同じ意味で使われる言葉で、倫理<ethics>という言葉があるが、わたしの場合は、複数の人々の意味合いがある漢字の『倫』を考慮して、人が集まったときに起きる現象(ある状況に鉢合せるという意味)として使い分けるようにしている。日本ではこちらの意味で道徳(~ハラスメントなど)がよく使われている。わたしの勝手な推測だが、日本人は、<ethics>がうまく発音できない、もしくはカタカナ語にできないから、言いやすい<moral>に統一したのではないかと思う。


 極端に言ってしまえば、日本人が言う道徳は、概ね経験論のことだと思えば、解釈が一致する。つまり、快不快を用いて道徳とは云々を語りはじめる訳だ。そうなると、自分自身の立法は存在せず、常に反証可能性にさらされた現象の中に立法を見出そうとするということになる。その結果、人は他律になる。車にひかれてはじめて、赤信号は渡ってはいけないと認識したり、また、車で人を引いてからはじめて車が危険なものだと認識するようなことである。換言すれば、現象になってからでないと、気がつかない――あるいは、身体が動かせない――人ができあがるわけだ。典型的なサラリーマンの台詞に「長い物には巻かれろ」があるが、それは、自分自身に立法がないから、良さそうなものにすがる、ということだとわたしは解釈する。


 そうなると、一番わかりやすいものは何であろうか、と考えた時に『お金』が思いつく。札束がたくさんあるのが善で、無いまたは借金は悪という拝金主義的――または守銭奴的――な考え方だ。この世のものはすべてお金で計ることができるとまで云う輩までいる。お金ですべて計れると思えるのは、単に物事の分析能力が乏しいからでしかない。


 エッセイの一番最初で、総合的判断の話をしたが、ものがお金で計れるのは、あらゆるものにお金という概念なり理念を足し合わせているから計れるのである。たとえば、人間の数と一言で表すだけなら、世界の人口を答えればよい。さらに、人種や国籍といった概念を付け足すと、日本人、アメリカ人、イギリス人、ロシア人、シンガポール人、マレーシア人など、単純に数として足し合わせて良いのかという考えが出てくる。もっとわかり易く言うと、わたしとスーパーの林檎を足し合わせることはできるのか? 足し合わせるためには、それなりの理由が必要になってくる。無理やり、お金という概念を付け足すことで、わたしが生涯稼ぐお金を算出し、その数を林檎の値段と足し合わせることはできなくはない。ただ、それだけで何の意味もない。概念を足すだけの言葉遊びでしかないのである。


 経験論の危険なところは、たとえば矛盾を自らの手で正そうとするところである。神話説の場合は、経験したかどうか曖昧なことまで受け入れてしまうことであったが、経験論は、その反対に、刃向かおうとするのである。ここで言う矛盾とは、誰がみても明らかな矛盾ではなくて、まず習慣があって、それを守ることが善でそれ以外は悪と考えるようなことである。会社や部活の先輩後輩に例えると、先輩が仕事を指示したが、後輩の作ってきた書類なりが、先輩の言った通りになっていないようなことはよくあることだ。そのときに、先輩が経験論者なら、後輩を必要以上に責め立てる恐れがある。神話説であれば、自分のせいにするが、経験論は、自分のミスも棚に上げて攻撃性をもつのである。殺人を犯すのは、神話説よりも、経験論者である。神話説論者は、彼自身の心の中だけに納まるから、他人を傷つける方向には向かわず、自殺へと向かう。完全な経験論者は、偶然を起点としているので、いつ人を殺してもおかしくはない。カミュの異邦人の主人公のように、「太陽が暑かったから拳銃の引き金を引いた」と、事の重大さを認識できなくても不思議ではない。なぜなら、涼しくなったことは、彼にとって善だからである。


 物語を作るときに、主人公を神話説にして、ヒロインを経験論にすれば、よくありそうな物語のテンプレートになる。神話説の人から経験論は前向きに見えるので、だんだんと経験論にひかれていく。しかし、その経験論も絶望には変わりない。ヒロインの絶望が物語後半に描写されるというわけだ。


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