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10 暴走列車はただの幻覚かもしれないこと


 今から十年くらい前、ある本がちまたで話題になった。 


 その本は、ハーバード大学の政治哲学の教授、マイケル・サンデル氏の『正義』についての講義をまとめたものである。


 この本では、これから哲学を学んでいく学生に向けて、問題提起をするために、社会のあらゆる問題のジレンマを取り上げる。


 その中でそのジレンマをわかりやすく説明するために用いるのが、いわゆるトロッコ問題というやつである。このトロッコ問題は、あまりにも有名で、それだけが独り歩きしているようにも感じる。これはあくまでも説明のための道具でしかなく、用法を守って使わなくてはならない。そうでなければ、とんでもない危険思想に陥りかねない。これを今回は解説してみたい。


 トロッコ問題とは、簡単に説明すると、こんな感じだ。


――あなたは列車の運転手である。ある日、いつものように運転していると、ブレーキが壊れていることに気がつく、そして、ある分岐点に差し掛かる。右には百人の工事現場作業員がいて、皆、騒音をたてながら線路の方をじっくりと眺めている。もう一方には、一人の放浪者が空を見上げて、線路の上を歩いていた。彼はヘッドホンを点けている。ふと目を下にやると、あなたの手元には、――どういう原理かはさておき、――ポイント切り替えを行うレバーがある。両者とも列車にはまったく気がついていないようだ。さて、あなたは百人の作業員を選ぶ? はたまた一人の放浪者を選ぶ?――


 この問題を、単純に直観で判断しようとすると、ほとんどの人は放浪者を選ぶ。


 なぜか? 


 百人の犠牲者よりも、一人の犠牲者で済むならその方が犠牲が少なくて済むからだ。


 もちろん、それはその通りである。


 でも、それが本当に、「良い決断だ」と言い切れるのであろうか?


 もしその放浪者が自分でも?


 もしくは、その人が、この世で他の誰よりも大切な人でも?


 だからと言って百人を選ぶ? 一人のために?


 この問題で重要なポイントは、『人の数によって答えを導き出していること』だ。その数となった人間を哲学では『~一般』と呼んだりする。たとえば自然数をあれこれ足したり引いたりするときに、わざわざリンゴやミカンを手元に並べて考える人は、あまりいないだろう。なぜなら現実のリンゴやミカンは、形が違ったり、大きかったり小さかったり、あるいは、もうお母さんがジュースにしてしまったりして、計算どころの話ではなくなってしまうからだ。


 これと同様に、トロッコ問題では、人間もただの自然数として扱われているのである。この場合は、『人間一般』というわけだ。


 このような考え方を『功利主義』という。この本ではジェレミ・ベンサムが取り上げられる。その哲学の目的は、『最大多数の最大幸福』だ。


 この考え方はあらゆる問題を非常にわかりやすく整理してくれる。だから、別にこの考え方は、けっして悪いものではない。ただし、使い方を誤らなければの話だが。


 トロッコ問題を無理やり功利主義に当てはめてみると、こう言っていることになる。


『一の悪行は、百の善行で償われる』


 これはドストエフスキーの『罪と罰』に出てくる主人公、ラスコーリニコフと同じ考え方である。ラスコーリニコフは、この論理で人殺しを正当化し、金貸しの老婆の殺害に及ぶ……


 哲学には用途がある。それを間違ってはいけない。それはベンサムだけでなく、わたしがよく取り上げる、ルソー、カントでもおなじことだ。だから、偉人たちが何のために哲学を必要としていたかを、しっかりと見極めることが重要だ。


 もしベンサムの哲学が求めるものが『幸福』だとするならば、トロッコ問題で一番幸福を感じることのできる人間は誰なのであろうか?


 それでは想像してみよう。あなたは、目の前で赤の他人が列車にひかれるのを見たその瞬間、幸福を感じるであろうか?


 答えは、「ノー」である。つまり、このトロッコ問題は、功利主義の目的とは合わないのである。なぜなら、誰も幸福を感じない。驚きと、恐怖しか感じないだろうからである。


 それではいったい誰の哲学が、このトロッコ問題に終止符を打つことができるのであろうか?


 わたしは、カントの哲学だと思う。


 トロッコ問題は、純粋理性の創造物である。わたしはこのエッセイのはじめに純粋理性の純粋の意味を、『区別できていない』と解説した。何が区別できていないのかというと、それは『直観と経験』である。


 直観は数学のことだと思って貰えればいい。わたしたちは、地球を丸いものだと認識している。その証拠に、海が見える海岸に立って、目線を海面と平行にしてみると、首をうごかさずに遠くの空を見ることができる。つまり、地面は緩やかな曲線を描いていることになる。この『曲線一般』を次々と、その先へ先へと連結して行く。すると、その曲線は一つの大きな円を描くことになる。これを数学では『証明』と呼ぶのである。数学で円を描くためには、一部の曲線だけがわかれば、それで十分なのである。これは因果性(原因と結果)とも呼ばれるものである。


 一方、経験は哲学のことである。この場合の哲学とは、『経験をもとにした批判』である。批判をするには、家の外へ出て、辺りを見渡せばいい。建物がいっぱいある。場所によっては、山もあれば谷もある。だから、完全な球体とは呼べないのではないか、と直観は批判される。


 この直観と経験を組み合わせることで、わたしたちは、『地球はだいたい丸い形をしているが、完璧な球体ではない』と結論づけることができるわけである。


 それでは、トロッコ問題に戻る。


 あの暴走列車の事件は、いつ、どこで、どのような状況で起きたのであろうか? たとえそのような状況に出くわすとしても、なぜそのような路線、列車、時間帯、鉄道会社、運転手、等々を選ばなければならなかったのか? もう一本路線が隠れているとどうして言えないのか? これまでの判断も、これから死者がでることも絶対的に必然なのか?


 誰も答えられないはずである。


 なぜなら、そんな暴走列車は、誰も見たことがないからである。この事件は、出題者の頭の中にしかない。だから事件より過去に遡っても、未来に前進しても無でしかない。相手に考えさせず、出題者の思惑に誘導しているだけなのである。


 当たり前だが、人は、経験よりも、直観に左右されやすい。


 なぜならば、数学は絶対に正しく、反証不可能だからである。


 しかし、忘れてはならないのは、そのとき、暴走列車や、数に数えられた人間が現実に存在するかは問うていない。


 だから、「蓋を開けてみたら、実はぜんぶ幻覚でした」なんてこともありうるわけだ。出題者はそれを悟られぬように次々と条件を追加して、カモを混乱の渦に突き落とす。もし相手が有名な大学教授でなかったら、願い事が叶う高い壺を、75年ローンで購入する未来が待ち受けているかもしれない。もし読者の友人が騙されていたら、なるべく早く問題の前提がおかしいことを教えてやるべきだ。聞く耳を持つかどうかはその人しだいだが……


 以上が頭の中と頭の外を区別する方法である。トロッコ問題は、あくまでも頭の中を整理するために用いなければならない。現実の問題はレールのようにすっきりとは、まとまっていないものだ。


『矛盾しないからといって、それが現実存在とは限らない』


 これはカントの偉大な名言である。


 あなたがもし工事現場作業員で、一軒屋を作る材料とノウハウしか持たないとする。なのに、高層ビルを建てろ、と上司から独断的に命令され、仕方なく、あらゆるものを誤魔化してつじつま合わせを行ったとしたら、どのような結果を招くかは、想像に難くない。旧約聖書のバベルの塔がそれである。言葉は意味を失うのである。


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