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1 純粋理性批判から考える道徳と妄想の区別

※以前、短編として投稿したものと同じ内容です。


 はじめに、イマヌエル・カントという有名な哲学者の著書。『純粋理性批判』を参考にして、道徳について解説してみたい。


 イマヌエル・カントという人物がどんな人だったかなどは、いろんなところで紹介されているので、ここでは細かく解説しないが、短くまとめると、


『この人がいなかったら学問というものが、そもそも消えてなくなっていたかもしれない』


 というくらい重要な書物を残している人物だ。カントが残した書物の一つが『純粋理性批判』である。


 まず、『純粋』とはつまり、『区別されていない、分類できていない』という意味で、『理性』とは『魂、神、自由、正義、不正義、この世の始まり、この世の終わり云々……』といったようなこと――まとめて言えば、理念――を考える人間の能力のことを指す。そして最後に、『批判』とは、問題の前提そのものを疑うこと。たとえば、『Aさんが行った行為は正義か不正義か?』という問題が出たときに、『そもそも正義とは何か、そのような抽象的なものが、人が確実に判断できるものなのかどうか』ということを考察し、そこから得た認識を新たな理念とし、また同様の手順を無限に繰り返していくような技能のことである。尚、批判は反論ではないため、『正義がある』という命題に対して単に、『正義はない』と返すものではない。こういった対立は空虚であり、互いに打ち消しあうのみで、あらたな概念を生むこともない。


 さて、なぜカントは純粋理性批判が必要だ、と考えたのだろうか。それは、先ほど述べた『反論』のせいでもある。プラトン学派、エピクロス学派と聞いて拒否反応が出てしまっても困るので、なるべく簡単に言葉を直してみる。プラトン学派は有限と宇宙論。エピクロス学派は無限と経験論である。『宇宙は有限で、この世の全てのものは始まりと終わりがあり、すべてのものは数え上げることができる』と述べたのがプラトン学派、『宇宙は無限で、この世に終わりも始まりもない、そしてこの世のすべての個体は何か混ざり合ったもので、本当の意味で数え上げることは不可能である』と述べたのがエピクロス学派である。


 この議論をすべて理解するのはとても労力がいるが、その結果どうなったかといえば、これはさきほど述べたように、空虚なもの、となってしまったのである。つまり、人は何もまともに認識することができないし、共通認識も持つことができない、と。つまり、道徳などというものは、幻覚だ、となってしまったのである。


 これに対し、両者は批判が欠けており、おかしい、とカントは考えたのである。なぜなら、もしすべてが幻想なら、三角形が図形であることを認識することもできないし、『1+1=2』という式も認識できないことになってしまうからである。


 この二つの認識とは、


 たとえば、富士山を見ても、富士山として見える単なる現象を見ているのであって、富士山それ自体を見ているのではない。映像に移った富士山を見て、『これは本物の富士山なのだろうか?』という、自分自身が持つ概念のスポットライトの光の範囲に当てはまるかどうかを判断するのである。この判断は無限に行うことができる。


 また、箱の中に入っているリンゴを見て、それがいくつあるか数え上げるとき、私達は、一つのリンゴを『1』という抽象的なもの―観念―に置き換えることができ、たとえ、箱の中にミカンが入っていたとしても、それも『1』とすることができる。その判断はいつか終わる、有限なものである。


 前者は分析的判断、後者は総合的判断と呼ぶ。カントはこれを純粋理性批判の中で、詳細に解説しているが、本筋からそれるので、詳しい説明は割愛する。


 分析的判断は頭の中――内的感覚――を、総合的判断は体の外――外敵感覚――に用いるものである。たとえば、『絶対』という言葉を内的感覚でとらえれば、頭の中に思い描いたものと『絶対にあてはまる』と、つまり最小限という意味になり、外敵感覚なら『私の言ったことは絶対だ』というように、最大限に外に向かって広がりをもつという意味になってしまう。これはアンチノミー(二律背反)と呼ばれるものである。


 このアンチノミーをよく表したデカルトの有名な言葉がある。それは『我思う、故に我あり』である。『我思う』とはつまり内的感覚としての自分――魂や思考する私――のこと。『我あり』のところは外敵感覚の自分――肉体または他人から見た自分――のことである。


 さて、ここで一つ不思議なことが起きていることに、読者は気がついただろうか。


 つまりこうだ。


 自分が二人いるのである。


 この場合、どちらが本物の自分なのであろうか。きっとスピリチュアルなことを信じたい人ならば、魂の自分が本物だと言うだろう。そして、夢やぶれた現実主義者なら、他人から見た自分が本当の自分だと言うだろう。


 しかし、カントの場合はこうだ。


『どちらでもない』


 そう、どちらでもないのである。


 これはどういうことかというと、カントは、人が直観できるあらゆるものを現象としてとらえ、物それ自体は直観できない、としたのである。


 たとえば虹があるとする。虹は水蒸気と光による現象なので、虹それ自体を見ることができない。そして、水蒸気をみれば、水蒸気という現象をみるだけで、水それ自体はみることはできない。そして光も同様に、光をみれば、光という現象をみるだけで、光それ自体は見ることはできない。そして水素も……酸素も……云々。つまりこれが無限に続いていくだけで、永遠に物それ自体には到達できないのである。


 よって、考える自分も他人から見た自分も現象であり、本当の自分それ自体ではないのである。


 物それ自体としての自分のことをカントは『主体』と呼ぶ。法律を勉強したことのある人ならば、この主体の意味に頭を傾げたことがあるかもしれない。なぜなら主体としての自分を経験することなどできないからである。しかし、この主体がなければ、考える自分も、他人から見た自分も現象として存在しないというわけである。


 たとえば所有権なら、それを持つのは魂でも身体でもない。主体なのである。


 だから、なぜ人を殺してはならないのか、なぜ自殺してはならないのか、と子供に訊かれたら、それは、あなたの魂も肉体も、他人の魂も肉体も、主体のものであって、誰のものでもあってはならないからだ、ということになる。しかも、主体のことは誰も知ることができないのだから、判断のしようがない。つまり命題の前提が、そもそも誤っているのである。なのに判断できるというのならば、それは何か、空虚な妄想にとりつかれているということだ。この事は、ドストエフスキーの小説でよく描かれている。ジャン=ジャック・ルソーが言うように、物理的な力がものをいう世界(自然状態)では、権利も義務も存在しない。その先で待つものは絶滅だけである。絶滅しないように、人は集団で生きる道を選んだのである。それは暗黙知的な約束に基づいており、人類全体の生存戦略と言っても間違いではないだろう。


 人が目の前で急に倒れた時、「助けに言った方が良いのだろうか」と考えたなら、それは主体があなたに「助けてやれ」と命じているのかもしれない。そして、あなた以外にもその場に人がいて、その人たちも同じように考え、皆が倒れた人に駆け寄って、助けてやったとする。もし世界中の人々がこの状況に出くわして、もしくはそのように想像して、同じように行動した方が良い、と考える――主体から命じられる――ならば、それが繰り返し、ほんとうにあの行動は良いことだったのだろうか、と批判され、共通認識となれば、法則となっていく。それが道徳法則なのである。


 つまり、道徳とは経験――もしくは経験できる可能性があること――によって批判され、作り上げられた概念なのである。だから、道徳は、考えなくてもわかるが、経験や経験の可能性を伴わなければならないのである。なぜなら、自分が持つ概念が本当に道徳的かどうか検証するには、それ以外に確かめようがないからである。もし自分が道徳的だと思っていることがあるなら、その道徳というスポットライトの中に、経験できるものがあるか検証してみるといい。もしその道徳が、単なる理念で、直観を伴わないなら、それは幻想なのかもしれない。


 リンゴは果物である。富士山は山である。魂は? 神は?


 人は神や魂を理念として持つことができる。しかし、それを直観することはおろか、具体的に想像することすらできない。しかし、これは理性の暴走なのである。人は、時に、頭の中と頭の外の区別がつかなくなるのである。たとえば、宇宙は有限で、その果てに、神が作った有限を示す岩の壁があったとしよう。だとしても人は、その岩の壁を掘削機でどこまでも掘り進めようとするのである。そして通り過ぎた後も、いつまでも境界を探し続けるのである。また、宇宙が無限だとしてみよう。すると人は、自分はちっぽけで、無力で、何もかも無駄に思えるものである。これは理念にとっては小さすぎる、経験にとっては大きすぎるという状態で、これに陥ると人は、頭の外と頭の中の区別がつかなくなるのである。


 宇宙が有限か無限か。始まりはあるか、終わりはあるか、魂はあるか、ないか、神はいるか、いないか、そんなことは、どちらでも良いことなのだ。信じたければ、思う存分、信じればいいだけのことである。これをカントは、無限定と呼んでいる。ただ、それを経験の中に求めるのは、頭の中と、外の区別がついていない行為で、空虚を招くのである。


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