第1話 第零特務機関
四方は山に囲まれていた。
まるで外界から隔離されたように、あるいは外界を拒絶するように、地図にも載らず一般に認知されてすらいない場所。
古風な木造建築物が建ち並ぶ景色は、現代から遠く遡った過去にタイムスリップしてしまったと、そう錯覚してしまうほどである。
かつて女はそのように語っていた。
もっとも、それは外界を知っている者が抱く感想だ。
幼い頃からこの第零特務機関という施設で育った者にとっては理解しがたいことだった。
世界とはすなわち個人の知覚している情報から作られるものであり、それ以上でも以下でもなく――だからこそ一之瀬桃香は、己の知る世界観から考えるとその女の言葉の意味はよくわからなかった。
「まったく、ここはやっぱり異質だな」
高台にそびえる社。
その境内から古都を模した街並みを俯瞰しながら、スラリとした長身の女がそう吐き捨てた。
長身の女のすぐ傍らには、彼女より一回りほど年下と思わしき少女の姿がある。
あどけない顔立ちだが瞳には刃のような鋭さが宿っていた。一見すると華奢な体躯は、見るものが見ればよく鍛えられていることがわかるだろう。
和服風にデザインされた学生服は、第零特務機関の教導院生であることを示している。
少女――一之瀬桃香はふと首を傾げると、女に対して率直な疑問を投げ掛ける。
「あの、いつもと変わらないと思いますが、どのへんが異質なんでしょうか?」
すると、桃香にとって剣術の師である女は、困ったように眉をひそめる。
それから、ひょいと肩を竦めながら、答えた。
「どのへん、って言われてもなぁ。いや、言ってしまえば、いつもと変わらないことが異質で、要するにこの地は最初から最後まで異常なのさ。時代錯誤の街並みに、人工的に作られた四神相応の地からなる結界……それから、ここで育ってる君たちもまたおかしいんだよ。だから、あたしはあんまり好きじゃない」
「師匠はわたしのことが嫌いだったんですか……?」
桃香がしゅんとしながら訊ねると、女は「いいや」と慌てもせずにかぶりを振った。
「桃香君のことは好きだよ。あたしが言ったのは個人の好き嫌いじゃなくて、子供たちを戦う道具として育てるこの施設のシステムに対するものさ。ま、ここの元教導員だったあたしが、いまさら文句を言える立場でもないけどね」
「はあ……」
やはり桃香にはわからなかった。
だが、御剣沙耶という女の言葉を理解できないのは、いまに始まったことではない。ここで重要視するべきは、桃香が嫌われていたわけではないという事実だった。
少女はホッと安堵の息を吐き出して、ゆっくりと胸を撫で下ろす。
「さて桃香。あたしの監督はここまでだ。今日はいよいよクソババ――ああいや、大巫女から直々に任命されるんだろ?」
「は、はい!」
大きく頷きながら、桃香は高台の社を訪れた理由を思い出した。
この第零特務機関で教育を受ける子供たちは、誰もが同じ目標を持って鍛錬に励んでいる。
それは、優秀な浄滅師――瘴気を生み出す怪魔を滅して土地を浄化する霊能力者――になり、地球の霊脈を守護する戦士となることだ。
そして今日。
ついに桃香はその一歩を踏み出すことになった。
第零特務機関の統治者たる大巫女が座する社で、これから正式に浄滅師としての資格を身に与えられることになっている。
その儀式が決定したのは一週間前のことで、故に桃香は多くの師の中で最も信頼する御剣沙耶を呼んだのだ。儀式の前に緊張を解してほしいという要請に、彼女は文句も言わずに応じてくれた。
こうして社の前まで同行してくれたことに、桃香は感謝の意を込めて頭を下げた。
「師匠、ありがとうございました! わたし、これから頑張って、師匠の名に恥じない立派な浄滅師になってみせます!」
「なら最後に師匠として言っておくよ」
ぽん、と桃香は優しく肩を叩かれた。
沙耶は柔らかな表情で、されど真剣な声音で告げる。
「浄滅師の資格と同時に、おまえは初めての任務を与えられるはずだ」
「はい。その任務を成し遂げたとき、わたしは本当の意味で浄滅師になれるんですよね」
「ああ、言ってしまえば最終試験のようなものだ」
だが、と沙耶は一拍の間を置いて、
「その任務の内容なんてのは、どんなものであれ頭の片隅に置いておくだけでいい。いや、もっと極端な言い方をするならば、任務内容なんぞ忘れてしまえ」
「……えっと、それはどういう?」
こればかりは理解しがたいという範疇を超えていた。
任務とはその内容を把握し、それに従って遂行するものと桃香は習っている。だというのに、沙耶はあろうことか任務内容など「忘れろ」と言ったのだ。それでは、任務の遂行などとても不可能だろう。
桃香が向けた疑念に対して、沙耶は諭すように答えた。
「外の世界は広い。この閉鎖的な空間で育ったお前は、きっと戸惑うことも多いだろうし、おそらく何度も苦難にぶち当たるはずだ」
「は、はい」
「そうなったとき、いつだって頼れるのは自分だけなんだ。だから信じるのは任務の中身ではなく、一之瀬桃香の心の中にあるものだと覚えておくんだ。目で見て、耳で聞き、肌で感じて、そのうえで自分の信じるべき道を進んでいけ」
いいな? という問い掛けに、桃香はただ頷くことしかできなかった。
沙耶はそれで満足したように瞳を伏せると、今度は力強く少女の背を叩いて気合を注入した。
「さ、行ってこい」
「い、行ってきます!」
かくして少女は社の拝殿へと足を向けた。
ここから先はもはや師の立ち入れる領域ではない。
沙耶は幼い頃からずっと面倒を見てきた愛弟子の後姿を黙って見送る。
これから先、一之瀬桃香が真っ直ぐであり続けることを祈りながら。