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海の水槽

作者: オトノシユ



御伽噺が好きだった私が、特に好んで読んでいたものは、人魚姫だった。

どうしてかは自分でも分からないけど、子どものころ突然人魚姫を繰り返し読み返すようになった。気づいた時にはパッタリ読まなくなっていたけど、当時の私は何かあの話に引き込まれる何かを感じたのだろう。


私は決して、現実に疲れた人間ではなかった。

適度に友達もいるし、特別こじれた人間関係もなく。穏やかな家庭でぬくぬくと育ち、大学受験を終えて至福の春休みを送る、平凡な女子だ。それに、夢見がちでもなかったし、だからと言って現実主義でもなかった。何が言いたいかというと、私はファンタジーな物語の主人公になるような特別な要素を持つ人間じゃないってことだ。


だというのに、私はこの春、人魚姫もびっくりの仰天体験をすることとなった。






私の家の近くには砂浜がある。

高校から大学に上がるまでの春休みは思いのほか長く、今まで自分は勉強以外に何をしていたっけ、と何となくスマホを触っては惰眠をむさぼる日々が続いた。


いや、これではだめだ。

怠惰な自分を改めるべく、私は早起きをして浜辺を散歩する事を日課にした。

朝の澄み渡った潮風を、私だけが独占している。うん、ちょっぴり贅沢。


その日も朝に家を出て、浜辺を訪れた。

いつもと違うとすれば、早朝すぎて朝日がまだ昇っていなかったことだろうか。

夜と朝の狭間。空の色がくるくると変わる。


「んー、きれい」


私は上を見上げていた。

その時。足を誰かに掴まれた感覚がした。次の瞬間には――


海の中にいた。






え? 可笑しくないかな。海沿いの断崖絶壁ならまだしも、浜辺だよ?

仮に上を見ていて足を踏み外しても、少し水に濡れる程度の浅さのはず。どうしてこんなに深く、深く――


「おまたせ……会いたかった」


こぽこぽと口から空気が漏れ出る音に重なって、男の声が聞こえた。

水の中なのに、鮮明に聞こえた。

驚いて、肺の空気を一気に吐き出してしまう。


「あれ、海でも過ごせるようにしてるらしいけど……」


酸素が抜けきって、無意識に息を止める。


「大丈夫。息、止めないで」


そう言われても、水の中で呼吸することには抵抗があり、その声には従えなかった。そうして段々と目の前がうすぼんやりしていき、やがて私は意識を手放してしまった。






目を覚ますと、全面が青色の世界。

驚いて辺りを見回すと、目の前を魚が通り過ぎた。


「!」


海だ、ここ。

それも、日本の緑色のじゃなく――いや、あれはあれで趣があるのかもしれないけれど――透き通ったアクアマリンのような世界。

下の方へ目をやると、ふよふよと海藻が揺らめいて……ん?


「!?」


私の足が、ない。

魚になってる。魚のしっぽになってる!


そういえば、呼吸もどういう原理なのか分からないけど普通にできてる。

水の中なのにこんなにハッキリ景色が見える。

違和感だらけだ。


「!」


だけど声は出ない。


私は不慣れながらこの場所から離れようと上へ上へと泳いだ。

夢だ、これは妙に感覚がリアルな夢だ。

水の抵抗を全身に感じるのは気のせいだ。


陸へ。そうしたらきっと全部、元に戻る。

私が人魚? そんな小説みたいなこと、ありえない。


上へ泳ぐ。


「っ!」


ガンっと何かに強く頭を打ち付けて、目の前に星が散った。

痛みに悶えつつ、何にぶつかったのかを手で触れてみると、そこにはガラスの天井があった。

ガラスの天井に触れながら沿って泳ぐと、やがて行き止まりに行きつく。そのままガラスの壁になっていて、ずっと続いていた。


まるで海の中で、水族館の水槽に入れられているみたいだ。


その嫌な予感を打ち消すために、ガラスの壁の反対側に向かって泳いだ。出口がないなんて考えたくもなかった。私は泳いで泳いで、ガラスの隅から隅まで確かめた。


けれどやっぱり四方八方をガラスが私を囲んでいた。


ぺたぺたガラスの壁を触れていると、ガラスの向こう側、視線の先から何かが近づいてくるのが見えた。


「……いっぱい泳いでるね。この水槽気に入ってくれたのかな」


意識を失う前に聞こえたあの声だ。彼姿が認識できる近さまで来た時、私は息をのんだ。それはそれは美しい青年だったからだ。

訂正する、人魚だ。


「かわいい。これからは毎日、ずっと君の姿が見れるんだ」


うっとりと、ねっとりと、恍惚と笑う。

すいすいと美しいうろこを光らせて彼は私がいる場所まで近づき、ガラス越しに私の手に自分の手を重ねた。


「こんな人間の服じゃなくて、もっと着飾ってあげる。大丈夫、俺が一生お世話してあげるから。一人にしないから。愛してるよ」


ちょっぴり夢を見ていた小説のような摩訶不思議な体験が、こんなホラー展開なんて信じたくなかった。



………

……



「姫、こんなところに居たんだ」


回想に耽っていると、突然甘ったるいイケボが後ろで聞こえ、思わず震えあがってしまった。

振り返ると、特に気にした様子もなく、これまた声に負けないイケメンが花丸百点の笑顔で私を見ている。ただしこの笑顔、とても胡散臭い。


「姫って、ほんと、こういう狭い場所好きだね。今回は探すのに苦戦しちゃった」


私は狭い場所が好きなわけじゃない。この男に四六時中見られるのが嫌だから、こうして隠れているだけだ。


「まぁいいよ。いつでも見つけ出してあげるからね。さ、ご飯の時間だよ」


男は手にマグロの切り身を持ち、私の口元に持ってくる。

確かに、私は寿司屋に行けばマグロを好んで食べていた。でも、この状況では好物も食べたいとは思えない。


「……ほら。せっかく今捕まえてきたんだよ」


食べずにいると、男は悲しそうに目を伏せた。

殊勝な態度をとっているが、これ以上抵抗すると指ごと私の口に突っ込んで無理やりにでも食べさせてくることを私は知っている。

仕方なく、私は切り身を食べた。


毎日毎日海鮮類ばかり。肉が食べたい。


「ふふ、えらいね。じゃあ俺は出かけてくるから、大人しくしてるんだよ」


さらりと白銀色の髪をたなびかせて、男は泳いで消えていった。

きっちり私がいる水槽の鍵を閉めて。


そう、この水槽、きちんと出入口があった。下の方の隅に小さな、人間――いや、人魚ひとりがギリギリ出入りできる程度の扉が。

どうにかここから抜け出せないものかと思案するけれど、ガラスも扉も頑丈で壊せないし、鍵は彼が持っているし、第一出てもこの人魚の身体でどこへ行けばいいというのか。


「」


それに私は声を出せない。

彼を問いただす術がない。


だから私はこの生活を甘んじて受け入れていた。

朝も昼も夜も良く分からない。何日経ったのかも分からない。海の世界は始めこそ新鮮だったものの、流石に暇になる。暇つぶしに、さっきの美青年が私の食べ物のためにマグロを捕獲している姿を想像して笑うくらいしかすることがない。彼は少し可愛いところがある気がする。


彼は出かけている時以外は、私が入っている水槽をずっと眺めている。もうそれは、ずっと。そんなに熱烈に見つめられると、彼が事あるごとに呟いてる「愛してる」の言葉も、あながち嘘じゃないのかもと思える。


でもなぜ私のことが好きなのか。

私は彼のようなイケメンに会ったことはないのだが。



………

……



「ふふ、姫」


今日もイケメンが私を見てうっとりと呼ぶ。

私が姫なんて畏れ多い。彼の方が王子様らしい。

……そういえば彼の名前は何というのだろう。


「」


私は意を決して、岩陰から姿を現して、彼の正面に出る。

そして彼に指を指して『名前』と口パクをしてみる。

彼は驚いたように目を見開いた。


「ひ、姫……? 俺に何か伝えようと、してる……?」


戸惑いの表情が歓喜に移り変わる。そして彼は何を思ったのか、頬を朱に染めてガラス壁に手を這わせた。


「俺も愛してるよ!」


違う。伝わらない。

どう見ても文字数が違うだろうに。


でも幸せそうな笑顔を見ていると、怒る気にもならず、だからと言ってもう一度チャレンジする気力もなく。まあこれでもいいか、と微笑んだ。



………

……



これはただの妄想だ。

もしかして、人魚姫のお話のように、人魚の彼は人間の私に一目惚れしたのかもしれない。そこで海の魔女と契約して、人間になる――じゃなくて、私を人魚にした。とか。

人魚姫での代償は、姫の美しい声だった。でも現在声を奪われてるのは、私だ。望んだわけでも、私が契約したわけでもないのに、人間の足を奪われた上に、声も奪われたって……私不憫じゃないか。


「姫は今日もかわいいね。

あ、そうだ。今度クラゲのダンスを見せてあげる。きっと姫が喜ぶ」


彼は愛おしそうに見つめてくる。

基本的に岩場に隠れてる私だけど、あまりの退屈さに最近は彼がいるときは彼の前に現れるようにしている。だって彼は私が動くたびに反応してくれるから面白い。


彼は献身的に私の世話をしてくれる。声が出ない私に対して、ずっと語り掛けてくれる。それを聞いているのは楽しかったし、彼の傍にいるのはどうにも心地よかった。


幻想的な海の景色のせいか。浮世離れした彼の美しさのせいか。

陸に戻ろうという気はまだ失せていないけど、どうにも現実味を感じられないままに毎日を消費していた。


「」


ねぇ、聞かせて。どうしてあなたは私を愛しているの?


「どうしたの、姫。お腹空いた?」


伝わらない。もどかしい。

私もあなたの言葉に返したいのに。


「……寂しい? でも陸には戻さないよ。絶対に返さない。ここが君の居場所だ」


あなたが零す不安を、和らげてあげたいのに。

私はどうしてだか、あなたと一緒にいることに幸せを感じているのだと。






※※※






俺が住処に戻ると、今日も姫が水槽の中から出迎えてくれる。

彼女は割とよく微笑んでくれるし、俺の言葉に反応してくれる。最初こそ反抗的な態度をとっていたけれど、今ではゆったりと俺を受け入れている。


ああ可愛い。愛おしい。


彼女の漆黒の瞳も、滑らかな肌も、時折見せる優しい笑みも。

願わくば声も聴きたいところだけど、そこまで高望みはしない。彼女が俺の傍にいてくれるだけで十分だ。


――むしろ、彼女が突然いなくなってしまえば、俺は耐えられない。


恥ずかしがり屋の彼女は、時々岩場に隠れていることがある。

帰って来た時に彼女の姿が見えなければ、途端に不安になって全身の血が一気に引いていく感覚に眩暈がする。不安で不安で出入口の鍵を確かめて、水槽に入って彼女を探して、探して探して、いなくならないでと願って、破裂しそうな心臓をおさえて探して。


もう失いたくない。大切なものを無理やり奪われる喪失感を、二度目は耐えきれない。


「」


きょとんとした姫を見つけた瞬間、崩れ落ちそうになる。

絶対に手放さないと、手を握りしめて、そっと抱き寄せる。冷たい肌がきもちいい。

抵抗せず、彼女は俺の腕の中で大人しくしている。それに安心した。


「姫。愛してるよ。俺たちはやっと同じ生き物になれたんだ。もう離さないどこにもやらない。ずっと、ずっと一緒だ」




※※




ある日、人間の少女は人魚の少年に出会った。

二人は交流を重ねて互いを想い合うようになっていった。


けれど種族の異なる二人。


『人間への恋は悲劇に繋がる』


人魚ならば必ず知っている悲恋の物語。人魚の少年が傷つかぬよう、少年の兄妹は海の魔女に頼み、少年と少女が互いを忘れる魔法をかけた。


少年は愛しい少女を忘れた。

少女は愛しい少年を忘れた。


やがて月日が流れた。女性になった少女は、早朝の海を歩いていた。

そこで遠く、遠くの岩場に座る美しい男の人魚を見つけた。

昔愛していた少年だと気が付いた。そして全てを思い出した。


彼女は走った。そして現れた海の魔女に願った。



『どうか、私たちを引き裂かないで』



海の魔女は、その願いを叶えるために人魚のヒレを与えた。その代償として声を奪った。

だが彼女だけが海に行っても、青年は彼女を忘れている。『引き裂かない』という願いのためには、青年の記憶を戻す必要がある。海の魔女はそう思った。

今度は、間違えない。


そこで、魔女は彼女の記憶を消し、青年に記憶を返した。


魔法は色とりどりに二人を包み込み、空はくるくると色を変えた。

彼女には、彼以外には行く場所のない身体を与えた。

彼には、彼女を離さない心を返した。




※※




魔女から話を聞いた時、彼女が忘れていることに悲しさを感じたけど、同時に魔法を打ち破って俺を思い出してくれたことが嬉しくもあった。


だから大丈夫。彼女が俺を忘れていても、俺は彼女を忘れないし、絶対に離さないし、愛し続ける。


「もう、ずっといっしょだ」


俺への愛を忘れても、俺に答えようとしてくれる彼女のその優しさは、昔と変わらず俺に向いている。

それが何よりの幸福だった。




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