教師簿 頁壱 桜羽アスカという者
――物語は少し遡り、召喚日の夜
「なあ、ところで俺はお前のことをなんて呼べばいいんだ? “勇者アスカ”とか、無難に“アスカ”なんてどうだ? それとも他の呼び方がいいか?」
良正は素朴とも言えるその疑問を彼女に投げかける。
「ん〜、そ〜だね〜。じゃ〜あ〜、“アス”って呼んで!」
「アス……か。響きはいいんだが、本当にそれでいいのか? なんか“カ”を切っただけで面白みに欠けてないか?」
「い・い・の〜! 私はあなたを“ぐっちゃん”って呼ぶね〜! じゃ〜いまからね、よ〜いスタ〜ト〜! ほ〜ら〜、は〜や〜くぅ〜」
「えぇ……わ、わかった。呼ぶよ。呼べばいいんだろ、呼べば」
そして、突然“アス”と呼ぶことに決定し、すぐさま強要される。
彼は、女子はおろか女性の名前を呼ぶなど久々のことだったため、なんとも言えない若干の抵抗を感じる。
しかも、愛称ときたものだから難易度は格段に跳ね上がっている。
だが、呼ばないとなると、それはそれでいつかの如くまたボコされるかもしれない。
さらに、どうあれ彼女は彼にとってこれから一緒にやっていく仲である。
恐怖もにわかにちらつく中、彼は仕方なくではあるが彼女を愛称で呼ぶことにした。
拍動がどくどく、ばくばくと大きな音を立てながら身体中に響く。
これはどうも緊張が抜けないようで、彼は深呼吸して心を落ち着かせる。
一通り終えたので、そろそろ呼ぼう
そう勇気を振り絞り、彼はたった二文字をどうにか音として発する。
「……アス?」
「なんで人の名前呼ぶのにそんな時間かかるの〜? あ、まさか女の子恐怖症とか〜? にひひ。そんなわけないよね〜、年上の大学四年生だもんね〜。さすがに……ね〜?」
「なんだよッ、そうだったらなんだって言うんだよッ! ほら、何か、何か言ってみろや!」
彼は図星をつかれることに慣れていなかったため、誤魔化すように喚くしかなかった。
「……すみませんでした。僕は女性恐怖症です、本当に辛いんです。どうか、お許しください。どうか、お願いします」
が、どうにもならないと悟ると、彼は頭を下げて彼女に正直に打ち明けた。
「ねぇ、ねぇってば。ほら、頭上げてよ。ごめんね、傷付けるようなこと言っちゃって。私は、ぐっちゃんにどんな過去があるのかなんて知らないけど、こうも酷い有様ってことは多分相当辛いんでしょ」
アスはとても物分りがよく、他人の辛さを理解できる人間だと彼は思った。
が、
「そ〜れ〜で〜も〜、私のことをアスってしっかりと呼べるようになるまでは寝させないよ〜!」
「ず、ずびばぜんでじだっ。って何、うわぁぁぁああッ! ねぇやめて、それはやめて。それだけは、もう許してぇぇぇええッ!!」
ボガッ!!
結局、この夜、彼は辛うじて眠ることはできたが、「できるまで練習するから眠れない」というより「できるまで叩くから眠れない」という、そんな夜になった。