狂気の果てに
「その絵が気になりますかな?」
もう一度繰り返した族長は僕の返事を待たずに壁に近づき、絵を指し示した。
「これは古代の戦場を描いたものじゃ。戦場は混沌と秩序について考える実に素晴らしい材料だからの。着実に訓練を積んだ兵士は混沌の神に殺され、訓練を怠けた兵士は秩序の神に殺される。或いはその逆もまた真なり。面白かろう?」
そう言って族長は僕の方へと振り返った。その穏やかで無機質な笑顔の中で目だけが熱を持っていた。
「で、あるならば混沌とは秩序の一形態であり、秩序とは混沌の派生に過ぎない。貴方に申し上げるには失礼なことかも知れませんがの、混沌の使徒よ」
「別に構いませんよ」
僕の心は不思議なほど整理されていた。
現場は完璧なほど抑えられた。
もう、今更僕がなにを強弁したところで、僕は邪教の儀式の目撃者なのだ。
口封じだろうと、生贄に追加されようと抗うことはできない。
「私は混沌の僕のつもりはありませんからね」
僕の断言に族長はうすら寒い笑顔で首を振った。
思わず身構える僕に構わず口を開いた。
「今は、の話よ。いずれ魔術師は選択を迫られる時がくる。混沌に与するか、秩序に傅くか。どちらにせよの」
『この門を通る者一切の希望を捨てよ』僕の脳裏にそんな言葉が浮かんだ。
ねぇ、僕そんなこと聞いてないんだけど。事前告知義務って通じないの?
通じないか。履行を求めて出頭したら邪神ごと殺されるか。
本当の地獄門かよ。
いけない。思わず思考が逸れてしまった。
「族長殿は混沌に与したのですね」
僕の確信とともに問いかけた。だって赤子から心臓を抉り出す魔術師が秩序な方が怖いし。
果たして族長は苦々しげに頷いた。
「若く、秀才と持て囃されていた儂は愚かにも自分ならば混沌の力を制御できると考えた。典型的な魔術師のミスよ」
まあ、あるあるだ。きっと族長は本当にそれこそ悪魔が勧誘に来るほど有能な魔術師だったのだろう。
それに、コボルトならば自分より優れた存在を知らなかったとしても無理もない。調子に乗るなと言う方が無茶だ。
「自らの才に溺れた代価として儂は……おっとまた自分語りを始めてしまったな。歳を取るといつもこうだ」
忌々しげに眉根を寄せる族長に僕は笑みを返した。
「いいえ。興味深いお話でした」
実際、ためになる話だった。慢心だけはしないようにしよう。
ま、絶対しないけど。なぜって?慢心するほど強くないからさ!
なにそれ、悲しすぎるだろ。
「そうかの?まあお客人ほど邪神に愛されていれば望と望まざると混沌に魅入られるのじゃろうが」
が、返された答えは絶対にいただけないものだった。
「私が?あなたと同じようにあの邪神どもに魅入られると?」
「フォッフォッフォ、ラダカーンには聞かせられない言い草じゃな。儂は一口に構わないが」
笑う族長を僕は怒気も露わらに睨みつける。
邪神に愛されるのは、まあ仕方ない。僕の裁量の範疇にないし、ある種事故のようなものだ。
問題はだ。僕が邪神を愛すことなどあるはずがないだろう。
こんなことをすることも僕が僕である限り決してやらない。
僕の無言の抗議を受け取ったのか、族長が言葉を続けた。
「きっと飲み込まれてしまうとも。混沌の魅力は凄まじい。どれほど高潔な秩序神の信徒も必ず混沌を抱えている。それが調和というものじゃ。例え混沌に与する者でも、儂も例外ではないが、必ず秩序の一面を持っている」
そこまで言ってから、族長は僕を憐れむように見つめた。
「じゃが、もし相手からやって来たらそれを止めることができるのはあくなき秩序への信仰のみじゃ」
「見解の相違ですね」
刺々しく言い放った僕に族長は重々しく頷いた。
「どうやら、そのようじゃな」
僕は心中でありとあらゆる罵詈雑言をこの忌々しいコボルトとさらにクソ忌々しい邪神どもに叩きつけた。
邪神に魅入られるなんて、そんな精神的自殺行為僕は絶対に嫌だ。
「それより、これは……なんですか?」
なにをやっているんですか?どうしてやっているんですか?
そう言う意味を含む僕の問いに族長は造作なく答えた。
「見ていればわかる」
それきり押し黙った族長に僕も口をつぐんだ。
妙に重苦しい沈黙に僕が耐えきれなくなる前に僕は奇妙な既視感と圧迫感に包まれた。
部屋がゴブリンの目でも見通せないほど暗くなる。
何か、何かが来る。
僕の背筋が冷や汗で濡れる。
そうだ。なぜ僕は生贄を捧げられた対象のことを考えていなかったんだろう。
これが前世なら生贄を捧げる狂った奴ら、と言うだけだったが。今は違うのだ。
「なにを呼んだのです?」
「見ていればわかる」
族長のおざなりな返答に僕は族長へ言葉を叩きつけてやろうと振り向くが、言葉を出す前に、何かが現れた。
ギギッと意図せず錆びついたブリキの人形のようにぎこちない動きで振り向く。
部屋全体を包んでいた闇が凝縮し、影のように固まった。
それと外界の境界線は曖昧で、ぼやけて常に変化している。
そのなんとも形容し難い邪悪な姿を敢えて説明するならば、影の人間だろうか。
影の人間は唯一、心臓のみが明確に存在している。毛の生えた心臓のみが。
影の人間は僕たちをチラリと一瞥してから、スッと目を逸らし捧げられた心臓を貪り始めた。
奴の興味が他にそそがれている間に、僕は焦燥に駆られながら族長を睨みつけた。
「なにを呼んだのです⁈」
小声で怒鳴り付けた器用な自分に驚きながら僕は恐怖と共に詰問した。
「見てわからないのか。あの存在が」
恍惚としたある種変態的な瞳に気圧された僕は恐ろしい影に再び目を戻した。
影の中、しっかりと存在するグロテスクな心臓に嫌悪感を抱かせられるが、それ以外はわからない。
仕方がないだろう。それ以外は黒一色だし。輪郭がよく掴めない。辛うじて人型だとは思うがそれも確かじゃない。
お手上げだ。
「ま、今の段階では仕方じゃろうな」
族長が再び穏やかな微笑みを顔に戻した。二重人格染みていて危ないコボルトに見えるのは僕だけだろうか。
「あれは御神体の一種よ」
「御神体?」
「正確には邪神がこの世に顕現される時の器じゃがな」
最高に忌々しい物じゃねぇか。
僕は心の中で思わず吠えていた。いや本当にそれだけはやめていただきたい。
僕がそう説得してもやめてくれるはずもなく、拳で説得しても勝てそうにないのでどうしようもないのだが。
「なぜそんな物を?」
だが僕は性善説を熱く信奉する元日本人としてなけなしのやる気を振り絞った。
「儂はもう骨の髄まで混沌に与したんだ」
自嘲気味に笑う族長に僕は言葉を重ねる意味がないと知った。
多分彼も頭ではわかっているだろう。関わってはならないと。ただ魔術師としての欲望が逃げることを許さんだろう。
「七つ目の月を生ききる直前の赤子の体は実に神秘に見ている。それを捧げれば儂の力は高まる」
そう言う族長の顔にもう自嘲の色はない。狂っている、邪神も族長も、そしてただ傍観する僕も。
重苦しい沈黙に包まれたまま、僕は族長と共に部屋を出た。
族長の配下の魔術師を引き連れ、子狼の隠れ場所に向かう。
岩陰で呑気に寝息を立てていた馬鹿を拾って黙々と歩き続けた。
「そう言えば」
唐突に口を開いた族長へと視線を向ければ、彼は僕を胡乱な瞳で見据えていた。
いやいやいや、お前にだけはそんなふうに見られる筋合いはない。
「お客人はなぜ出歩いていたのですか?」
「え?あっ!」
完全に忘れていた。仕方ないだろ。迷ってから起こったことがインパクト強過ぎたんだし。
「我々が狩りを行うことを伝えておこうと思いましてね」
「それについては儂らはご勝手にとしか言えぬが……一声かけてから……なんと言っても伝わらないか」
そう。言語の壁は厚い。ひたすら厚い。
万里の長城くらい分厚く、高い。これを超えられるのは血と鉄の洗礼くらいのことだ。
「では儂が事情を説明したコボルトを何名かつけておくので、次回からはそのコボルトに言ってくだされ」
「わかりました」
それだけで会話が終わってしまった。特に話すこともないし相手もそうだろう。
それにできればこんな魔術師と深く関わるなんて御免被りたい。
お互い同じ気持ちだったのか。僕と族長は簡素な別れを告げて部屋に戻った。
「随分と時間がかかったじゃねか」
「かけたくてかけたんじゃないんだよ」
苛立ったゴブリンリーダーに僕は宥めるように手を振った。
「どう言うことだ?」
「後で話す。それよりも今はちょっと休ませろ」
そう言い放って返事も待たずに冷たい岩に寝っ転がった。




